進水式後編

もくじ

2022年8月30日に行われた新造船となる「さんふらわあ」の命名・進水式見学ツアーに参加した、“航海作家”金丸知好さんによるルポの後編です。

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別府港で顔を合わせた幸運な面々

17年ぶりに足を踏み入れたターミナルは、当時のままの雰囲気だった。
その2階で進水式見学ツアーのメンバーが、初めて顔をそろえる。
昨日、さんふらわあターミナル(大阪)で受付を終えると、その後は各自思いのまま瀬戸内ナイトクルーズを楽しめた。
非常に自由度の高いツアーである。

幸運にも「さんふらわあ こばると」での大阪発着・進水式見学ツアーのプラチナチケットを手に入れることができた人たち。
中高年の男性が大多数を占め、フェリーや進水式のマニアが大集結。
筆者は勝手にそんなイメージを抱いていた。
確かに中高年の男性参加者は多かった。
熱心なフェリーファンといった雰囲気を醸し出す方も見受けられた。
意外だったのは、小さな子どもを連れた親子での参加者も数組おられたこと。
主催の「さんふらわあトラベル」は今回のツアーでは、子どもたちにフェリーへの興味や親しみを持ってもらいたいという思いから、大人1人につき小学生以下1人が無料になる特別キャンペーンを設定していたこともあったろう。
さらに若い女性のグループも見られた。
年齢層も幅広く、まさに老若男女が集うツアーといえる。

貸切バスに乗り込むツアー参加者たち。次第にテンションが上がってくる。
貸切バスに乗り込むツアー参加者たち。次第にテンションが上がってくる。
ツアーバス内。余裕のある座席割でコロナ対策も万全。
ツアーバス内。余裕のある座席割でコロナ対策も万全。

ツアーバスの座席は指定席となっている。
そして1名で2席を使用することとなっていた。
この6月に乗船した「にっぽん丸」のクルーズにおける、寄港地ツアーで使用したバスと全く同じ方式だ。
おりしも新型コロナウィルス感染症の第7波が、猛威をふるっていた。
進水式ツアーも「にっぽん丸」寄港地ツアーも、移動で使用するバスの座席を間引いていたのは、感染症対策に万全を期したためであった。
大阪発着をはじめ3コースがいずれも少人数での実施となっているのも、そういう側面があった。

門司港レトロが放つ大阪商船の光芒

別府港を離れたバスは一路、福岡県北九州市にある門司港レトロに向かった。
今回のツアーの正式名は「さんふらわあ新造船 進水式見学と門司港レトロの旅」。
進水式と並んで門司港レトロの観光もツアーの目玉となっている。
ここでは1時間ちょっとの自由散策となった。
筆者はまず旧大阪商船に向かった。
オレンジ色のタイルと八角形の塔が特徴の、門司港レトロを代表するこの建築物は1917年に建設された。
この5年前の1912年、当時の貨客船の2倍というスケールと破格のスピードを誇る「紅丸(くれないまる)」を投入し、大阪~別府航路を開設したのが他ならぬ大阪商船だった。

レトロな趣たっぷりの旧大阪商船三井船舶門司支店。

次にJR門司港駅前の広場へ。
2019年に6年にもおよぶ復元工事を終え、大正時代の姿を現代によみがえらせた駅舎。

リニューアルされた門司港駅は、夜間にライトアップされた姿も美しい。
リニューアルされた門司港駅は、夜間にライトアップされた姿も美しい。
関門海峡ミュージアムに展示されている門司港駅バナナの叩き売りの様子。
関門海峡ミュージアムに展示されている門司港バナナの叩き売りの様子。

その向かって左手に「バナナの叩き売り発祥の地」の碑が建っている。
日清戦争(1894~95年)ののち結ばれた下関条約で台湾が日本の領土となり、基隆(キールン)から門司港を経由して神戸を結ぶ航路が大阪商船によって開設された。
その後、基隆の商人が神戸に台湾バナナを持ち込んだ。
輸送中の船内で熟成が進んだものや傷んだものは、廃棄するのはもったいないので、寄港地の門司港で売り切りのため口上よろしく販売した。
これがバナナの叩き売りの発祥であった。

日露戦争(1904~05年)後、旧満州(現在の中国東北部)開発のため大阪商船の日満連絡船航路が門司港と大連の間に開設されている。
その名残が、1929年に建設された旧大連航路上屋だ。
船客待合場の建物に残る「旅具検査場」と「待合場」の文字と、アールデコ様式の装飾、そして船客や見送りの人々でごった返したであろう2階のコリドーに通じる階段。
かつて大連へ向かう船が停泊していた岸壁は埋め立てによって、現在の海岸線はかなり遠く離れてしまったが、往時の殷賑を今に伝える建物である。

旧大連航路上屋に残る「待合場」の文字。
旧大連航路上屋に残る「待合場」の文字。

なお、横浜・神戸発着ではあるが当時の大阪商船は南米に寄港する世界一周航路も有していた。
それは戦後、大阪商船三井船舶に受け継がれ1973年まで存在した。

旧大阪商船内に掲げられていた南米航路ポスター。

旧門司三井倶楽部の焼きカレー

午前10時20分。進水式の開始時刻との調整もあり、少し早い時間に昼食をとる。
会場は門司港駅の目前にある旧門司三井倶楽部。
1921年に三井物産の社交倶楽部として建てられた。
なお、1921年といえば大阪商船が別府航路に「紫丸」を投入した年でもある。
昨年で建築1世紀を迎えた建物は、2022年の春から2023年の3月末まで保存修理工事に入っていた。
そのため2階にあるアインシュタイン・メモリアルルームと林芙美子記念室は休館となっていた。

残念ながら旧三井門司倶楽部の外観は拝めず。
残念ながら旧三井門司倶楽部の外観は拝めず。

いまからちょうど百年前の1922年11月17日、講演のために来日したアインシュタイン博士夫妻がこの三井倶楽部に宿泊した。
その部屋が当時のままの姿で保存され、メモリアルルームとして公開されている。
門司港駅の隣に小森江という駅がある。小森江で生まれたのが女流作家・林芙美子だった。その縁で、2階に記念室が設けられている。
筆者は17年前に2階のメモリアルルームと記念室を見学している。
来年、リニューアルを終えた旧門司三井倶楽部を改めて訪れたい。

2005年に見学した際に撮影したメモリアルルーム。
2005年に見学した際に撮影したメモリアルルーム。

1階にある和洋Restaurant・三井倶楽部での昼食は海鮮焼きカレーセット。
門司港グルメといえば焼きカレーで知られる。
筆者も仕事柄、よく門司港を訪れるため、さまざまなお店で焼きカレーをいただいてきた。
しかしながら、こちらの焼きカレーはこれまでに食したことのない、非常に上品な味わいだった。
関門のふく(いわゆる「ふぐ」)、海老、イカ、ワイン漬けのバナナフリット、ジャガイモが乗り、その上に卵ととろけたチーズで焼き上げたカレー。
そしてデザートはバナナゼリー。
関門の海の幸と、門司港の歴史を物語るバナナ。
それらをギュッと凝縮した焼きカレーをじっくりと味わった。

魚介たっぷり、バナナフリットも入った焼きカレー。
魚介たっぷり、バナナフリットも入った焼きカレー。
デザートもやっぱりバナナ。バナナゼリー。
デザートもやっぱりバナナ。バナナゼリー。

栄光と先駆のシンボル「くれない」

幕末に長州藩が攘夷戦争(下関戦争)に備えて設置した砲台のレプリカが、壇ノ浦に面した「みもすそ川公園」に置かれている。
幕末に長州藩が攘夷戦争(下関戦争)に備えて設置した砲台のレプリカが、壇ノ浦に面した「みもすそ川公園」に置かれている。

旧門司三井倶楽部で神戸発着ツアーのバスと合流し、関門トンネルをくぐり山口県下関市に入る。
源平の最終決戦の地となった壇ノ浦で大分・別府合流ツアーのバスも加わり、これですべての参加者がそろう。

ツアーバスは隊列を組んで、下関市郊外の彦島にある三菱重工業下関造船所江浦工場の敷地内へと入っていった。
バスは造船所職員の案内によりバックしながら所定の位置で停車する。
造船所の内部はなかなか見ることができないため、目に映るものが全て珍しい。
構内の撮影は一切禁止されているので、カメラに収めることはできなかった。

停車したバスの右後方には、今年の3月に進水式を終え、来年のデビューに向けて建造が急ピッチで進む「さんふらわあ くれない」の姿があった。
くれない、とは110年前に大阪商船が開設した別府航路の第1船「紅丸」および1924年に当時の最新技術「ディーゼルエンジン」を搭載し、現代まで続くディーゼル船の先駆となった2代目「紅丸」、さらに関西汽船によって1960年にデビューし「瀬戸内海の女王」の異名をほしいままにした「くれない丸」に由来する。
「くれない」の名を担う船は、大阪商船から関西汽船にいたる別府航路の栄光の象徴であり、同時に日本のフェリー旅客船の歴史に名を残す先駆的な船だった。
そして来年就航する新造船「くれない」は日本初のLNG燃料フェリーとして、「さんふらわあ」シリーズで復活を果たす。

これから行われる進水式は、1番船の「さんふらわあ くれない」に次ぐ、2番船のもの。
造船所職員の先導によって、進水式の見学場所に移動する。
台風11号の接近で悪天候が懸念されたが、この日はまぶしい太陽が照りつけていた。
熱中症防止のため、職員の方が見学会の参加者に配る塩キャンディーがありがたい。
強烈な陽射しを片手でさえぎりつつ、紅白幕を見上げる。
あの幕の下には新しい船の名が描かれているはずだ。

ふたつのレジェンドの名を受けた船の誕生

午後0時25分、式典が始まる。
命名者と支綱切断者へ造船所から花束贈呈が行われている、らしい。
らしい、というのは船を見上げる見学者の位置からは、高所にある式典会場は見えないからだ。
続いて「君が代」の演奏が行われ、いよいよ「その時」がやってくる。
株式会社商船三井 代表取締役 取締役会長の池田潤一郎氏によって宣言される。
「本船をさんふらわあ むらさきと命名する!」
戦前の別府航路全盛時代を担った「紫丸」。
そして関西汽船による黄金時代を「くれない丸」とともに創出した「むらさき丸」。
伝説の船の名が、いま「さんふらわあ」とリンクした。
ふたつのレジェンドの名を受けた船の誕生に、心が震えないはずはなかった。

紅白幕が引かれ、「さんふらわあ むらさき」の船名が現れた。
紅白幕が引かれ、「さんふらわあ むらさき」の船名が現れた。

次に支綱切断。
東京パラリンピックなど世界で活躍するパラアスリート・中西麻耶氏がその大役を担う。
中西氏は大阪府で生まれ、幼少期からは大分県で過ごしたこともあり、同船が投入される予定の大阪〜別府航路に縁があるとして、この役割を任された。
切断の瞬間は見学席からは見えない。
しかしゴツッ、カッという切断音はハッキリと耳に届いた。

船首に取り付けられていたくす玉が割れ、色とりどりのテープが乱舞し、風船が宙を舞う。
巨大な船体の陰にいったん隠れていた太陽が、再びパッと見学者たちを照らす。
まるで新しい船の誕生を祝うかのように光が差し、あたり一帯が明るくなった。

くす玉が割れ、船体が徐々に後退し進水を始める。
くす玉が割れ、船体が徐々に後退し進水を始める。

陽射しのまばゆさに目がくらむ。
その間にも祝福の音楽が流れ、長い汽笛とともに船はするすると巌流島のほうへと動いていった。

進水式は、人間に例えるなら「誕生」の儀式。
進水式は、人間に例えるなら「誕生」の儀式。

「くれない」「むらさき」、2隻のさんふらわあの邂逅

ツアー参加者の女性がひとり、感極まって泣いていた。
「なぜ泣いているんですか?」
涙している彼女に聞くのは野暮というものだ。
ここにいる者しか得られない、新しい歴史のページを開く寸前の張り詰めた緊張感とそれを目撃できるという高揚感。
それらがない交ぜになった独特なムードというものは確かにあった。
進水式の見学に何度も出かけている友人がいる。
正直、「何がこの人をそんなにも駆り立てるのだろう」といぶかしい気持ちがあった。
筆者初めての進水式見学で、思わず涙した女性や、進水式マニアを自認する友人の気持ちが少し分かったような気がする。

船に名前が与えられ、新たな息吹が吹き込まれる。そして初めて海水に浸かる。
約25分。
短いと思われるかもしれないが、その場では長く濃密な時間が流れていた。
姉にあたる「さんふらわあ くれない」の横に妹の「さんふらわあ くれない」が「よろしく」と挨拶するかのように寄り添ってきた。

進水式を終えたばかりの「さんふらわあ むらさき」(右)と、姉妹船となる「さんふらわあ くれない」(左)の2隻そろい踏み。
進水式を終えたばかりの「さんふらわあ むらさき」(右)と、姉妹船となる「さんふらわあ くれない」(左)の2隻そろい踏み。

誕生の瞬間を見てしまったこの船に、いつか必ず乗ろう。
娘の成長を見守る父親のような気分になり、造船所をあとにした。

「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」

バスは再び別府に。
別府八湯のひとつ、鉄輪(かんなわ)温泉にある「ひょうたん温泉」で入浴を楽しむ時間が設けられていた。
ちなみに「ひょうたん温泉」の創業は1922年。
いまからちょうど百年前。
それはアインシュタイン博士が旧門司三井俱楽部で宿泊したのと同じ年でもある。
なにやら「時空のメビウスの輪」をくるくると彷徨っているような不思議な旅だ。

約100度の源泉を、竹製の冷却装置「湯雨竹」で適温にしているひょうたん温泉。
約100度の源泉を、竹製の冷却装置「湯雨竹」で適温にしているひょうたん温泉。
ひょうたん型の風呂のほか、瀧湯、むし湯、砂湯など、多彩なお風呂で1日中楽しめる。写真は、風の露天風呂(女湯)。
ひょうたん型の風呂のほか、瀧湯、むし湯、砂湯など、多彩なお風呂で1日中楽しめる。写真は、風の露天風呂(女湯)。

源泉かけ流しのお湯につかりながら思う。
別府八湯は別府航路の開設により発展したという。そしてまた、こうも言える。
別府八湯なくして別府航路なし。
「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」
戦前の別府八湯PRのため喧伝されたキャッチフレーズだ。
東京から富士山の前を通り過ぎる新幹線で大阪に着き、瀬戸内海を渡って、いま別府の湯につかっている筆者。
大阪商船から関西汽船、そしてフェリーさんふらわあへと伝統のバトンが受け継がれてきた航路の過去と現在、さらに未来を想いながら温泉名物の蒸しプリンをいただき、サイダーでのどを潤した。

「さんふらわあ歴史館」にて

別府港のフェリーターミナルに戻ってきた。
筆者がここに足跡を残すのはこれが最後になるだろう。
この10月末、別府国際観光港のフェリーターミナルは55年の歴史に幕を下ろす。
同時に新ターミナルが、LNG燃料フェリーのデビューに先駆けて供用を開始する。
先ほど進水した「さんふらわあ むらさき」も来年、新しいターミナルにて出迎えを受けることになる。

別府国際観光港のフェリーターミナルに停泊する「さんふらわあ こばると」。
別府国際観光港のフェリーターミナルに停泊する「さんふらわあ こばると」。

乗船を待つ時間、1階の「さんふらわあ歴史館」をのぞく。
2013年4月6日オープンなので、筆者にとっては初めての入場だった。
そこには「るり丸」「あいぼり丸」「こばると丸」といった関西汽船のモデルシップがディスプレイされていた。

別府航路の「さんふらわあ」の歴史がよくわかる。
別府航路の「さんふらわあ」の歴史がよくわかる。
かつて「さんふらわあ あいぼり」の船上で、時間を伝えるために使われていた点鐘(写真下)。

「るり丸」の点鐘、1977年の関西汽船カレンダー、1984年に別府航路に投入された初代「さんふらわあ」のポスターなども展示されている。
奥には「さんふらわあの歴史」年表があり、1907年の大阪商船内航部の新設から2012年の別府航路開設100年までの歩みが見られる。

2011年秋、航路開設100周年を記念して始まった「よみがえる昼の瀬戸内航路」。
かつて別府航路で行われていた日中の瀬戸内航海を再現した船旅で、その最初の復活航海を実施したのが「さんふらわあ あいぼり」だった。

瀬戸内航路開設100周年を伝える新聞記事。

そしてこの秋、コロナ禍で中断していた「昼の瀬戸内海カジュアルクルーズ」が3年ぶりに復活する。
11月の航海は、これから乗船する「さんふらわあ こばると」で行われる予定だ。
歴史館は新しいターミナルにも残してほしい、と思う。
そしてLNG燃料フェリー姉妹船のデビューまでの歩みを加えた年表の掲示など、生まれ変わった歴史館を見てみたい。

新時代の別府航路への旅立ち

午後6時45分、「さんふらわあ こばると」は別府を出港した。
ターミナルに掲げられる「ようこそ別府へ」のオレンジ色の電飾が、黄昏が深まるにつれてその輝きを増す。

黄昏の別府国際観光港

この光景が見られるのも、残りわずか。そして間もなく別府航路に新たな時代が来る。
「さんふらわあ こばると」のツインファンネルから吐き出される2本の煙の筋が流れてゆき、別府の街灯りはその向こうに消えた。
<完>

前編はこちら→

大阪~別府を結ぶ「さんふらわあ」。
ベテランのフェリー「あいぼり/こばると」から、
日本初のLNG燃料フェリー「くれない/むらさき」へ。
関西~九州航路「さんふらわあ」はこちら
関西~九州航路「さんふらわあ」はこちら

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