もくじ
いま、クルーズ客船の旅が注目を浴びている。なかでも日本国内を周遊する短期間のクルーズが幅広い世代に人気だ。そんなクルーズブームの萌芽は、すでに1970年代前半の高度経済成長期にみとめられる。その先鞭をつけたのが、「さんふらわあ」であった。
国際級の豪華船を造りたい
豪華船での船旅を、日本全国で。こうした夢の構想を抱いていたのは照国グループの総帥・中川喜次郎だった。1969年。時は高度経済成長時代の真っただ中。翌年には大阪での万国博覧会の開催も控え、右肩上がりの経済成長を謳歌する日本国民のレジャー機運もどんどん高まっていた。
中川は川崎重工業に、こう持ちかけた。
「国際級の豪華船を造りたい」
1970年、照国郵船を母体とした日本高速フェリーが設立される。それは、中川の夢を実現のものとするための船社であった。
瞬く間に一世を風靡した「さんふらわあ」
1972年1月、六甲おろしが冷たく肌を刺すなか、川崎重工業の神戸工場で、1万総トンを超える1隻の船が竣工した。
真っ白な船体に、真っ赤なひまわり。斬新なカラーリングを施された新船は「さんふらわあ」と名付けられた。
(ひまわりのマークは1970年に開催された大阪万博のシンボル・太陽の塔と似た印象を受けるためか、作者は岡本太郎氏だと一部で囁かれているが、実際は岡本氏の作品ではない)
斬新なのは表面だけではなかった。従来の日本の客船やカーフェリーには全く見られなかったデラックスな内装、そしてレストランシアター、プール、コース料理を味わえるグリル、展望ラウンジ……
こうした施設をいくつも擁した「豪華客船」だったのだ。
レストランシアターでは別料金でトロピカルショーをはじめとしたイベントを楽しめ、それは「日本のクルーズの嚆矢」とも言うべき存在であった。
そして2月1日、「さんふらわあ」は日本高速フェリーの名古屋~高知~鹿児島航路でデビューを果たす。その優雅な船旅はたちまち世間に広く知られることとなり、九州旅行に向かう家族連れを中心に、高い人気を得た。
「さんふらわあ」は瞬く間に一世を風靡したのである。
あまりに短かった「さんふらわあ5姉妹」の絶頂期
「さんふらわあ」が世に旋風を巻き起こしていたころ、すでにその第2船がやはり川崎重工業の神戸工場で、急ピッチで作り上げられていた。その名は「さんらいず」と決まっていた。
ところが、デビュー直前に急きょ、「さんふらわあ2」と改名される。予想をはるかに超える「さんふらわあ」人気が理由とも言われる。また、こういう説もある。3隻目の候補は「さんせっと」だったが、それでは太陽が沈んでしまい、イメージは悪い。そこで2隻目を「さんふらわあ2」としたというのだ。
とにかく、同年5月に「さんふらわあ2」は「さんふらわあ」と同じ名古屋~高知~鹿児島航路に就航する。
その後も「さんふらわあ」は次々と世に送り出される。1973年に「さんふらわあ5」、1974年に「さんふらわあ8」がそれぞれ東京~那智勝浦~高知航路に、そして同年秋に「さんふらわあ11」が大阪~鹿児島航路に登場した。
5姉妹のナンバーが3隻目以降、3・4ではなく5・8・11と続いたのはなぜだろうか。
縁起を担いだのではないかと言われている。2の次が5なのは、末広がりの8に早く近づきたかったから、それで3ずつ番号を飛ばしたという。
この時代、東京から鹿児島まで太平洋には、ファンネルに照国グループのシンボル「中川マーク」が描かれた「さんふらわあ」の5隻の船隊が走っていた。
中川の夢はかなった。まさに「さんふらわあ5姉妹」の絶頂期であった。
数奇な運命をたどった「5姉妹」
しかし、絶頂期は長くは続かなかった。1974年に起きたオイルショックは高度経済成長に終止符を打った。それは国民のレジャー気分も吹き飛ばし、燃料費の高騰もあって長距離フェリーは冬の時代に入る。
1975年には日本高速フェリーの親会社・照国海運が倒産し、1979年には名古屋~高知~鹿児島航路も廃止。「さんふらわあ5姉妹」もその後、造船所での一時係船、別会社への移籍など数奇な運命をたどることとなる。
1990年、日本高速フェリーの実質的な親会社だった来島どっく(当時)がバブル崩壊で経営難に陥ると、東京~那智勝浦~高知・大阪~志布志~鹿児島の航路権は商船三井系の日本沿海フェリーに移る。こうして日本高速フェリーは解散し、「さんふらわあ5姉妹」はすべて商船三井グループの所有となった。
その翌年、商船三井グループの所有船の名はすべて「さんふらわあ+地名」に変更され、さんふらわあブランドは現在まで継承される。
やがて「さんふらわあさつま」(初代)と名を変えていた「さんふらわあ11」が1993年に引退したのを手始めに、1998年4月の「さんふらわあ」引退で5姉妹すべてが姿を消した。
「さんふらわあ7」が引き継いだクルーズ文化
ところで、さんふらわあには7も存在した。もともと関西汽船の「若潮丸」としてデビューしたもので、5姉妹とは全く出自は異なる。若潮丸は1979年にクルーズ客船「さんふらわあ7」として改造された。そしてチャーター客船として日本国内だけでなく、広く世界中を航海することとなる。
私は1980年代末に、「さんふらわあ7」で2度のクルーズ(国内と海外)を体験した。内装はカーフェリーとクルーズ客船を足して2で割ったような感じで派手さはなかったが、快適な船旅を送るには充分だった。思えば当時はバブル景気で、ちょうど「さんふらわあ5姉妹」が活躍した高度経済成長の終盤と、時代の雰囲気は重なるかもしれない。
その後、1992年に「さんふらわあ7」は引退する。それと入れ替わるように、時代は「ふじ丸」や「にっぽん丸」(3代目)など本格的なクルーズ客船の黎明期に入っていた。
「さんふらわあ5姉妹」と「さんふらわあ7」。6つのさんふらわあが、後に花開く日本のクルーズ文化の種子を残していったのは間違いない。
初代さんふらわあが残したDNA
2017年、商船三井フェリーの大洗(茨城県)~苫小牧(北海道)航路に2隻の新造船が投入された。「さんふらわあ ふらの」と「さんふらわあ さっぽろ」である。そして今年、フェリーさんふらわあの大阪~志布志(鹿児島)航路にも新造船が登場し、5月に「さんふらわあ さつま」が、9月には「さんふらわあ きりしま」が就航予定である。
いずれもバルコニー付きの高級船室や、開放感のあるプロムナード、ペットと過ごせるキャビンなどを設ける。従来のカーフェリーに比べると、クルーズ客船の気品をほのかに漂わせている。
初代さんふらわあが持っていた「国際級の豪華船」というDNA。それが、半世紀近い時空を超え、新たに生まれた「さんふらわあ」たちにも受け継がれ始めたのかもしれない。
金丸知好(カナマルトモヨシ)/航海作家
1966年富山県生まれ。日本のフェリーだけでなく外国航路や、中国や韓国の国内フェリーにも乗船経験が豊富。フェリー専門誌「フェリーズ」(海事プレス社)の執筆、「クルーズ」誌(同)に「フェリーdeクルーズ」を連載している。主な著書に「アジアフェリーで出かけよう!」(出版文化社)、「フェリーでGO!」(ユビキタスタジオ)、「超実践的クルーズ入門」(中公新書ラクレ)など。
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