今昔ものがたりvol5アイキャッチ

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神戸・六甲アイランド港に五色のテープが乱舞する。「さんふらわあ」の船がゆっくりと離岸していく。 「さんふらわあ昼の瀬戸内感動クルーズ」がいよいよ始まる。 2011年からスタートし、いまや定番となった神戸と大分を結ぶ瀬戸内海デイクルーズ。これは、別府航路開設から100年の節目を記念して始まった企画であった。その起源をたどるため、時計の針をぐっと戻してみたい。

別府温泉に白羽の矢を立てた大阪商船

話は明治時代にさかのぼる。1884(明治17)年5月、瀬戸内の船主55名が93隻の船を現物出資して新会社が設立された。大阪商船。のちの商船三井のルーツとなる企業である。

大阪商船は、日本全土に張り巡らせるように次々と敷設される鉄道網に対抗して、内国航路の立て直しが急務と考えた。そこで1907年(明治40年)内航部門を独立させ「内航部」をつくり、初代部長に任命されたのが山岡順太郎(1866~1928年)であった。

着任早々、山岡が着目したのは別府だった。
のちに「東の熱海、西の別府」と称されるほど日本を代表する温泉都市となる別府だったが、明治末年の入湯者の大半を占めていたのは地元・九州からの客であった。別府は知る人ぞ知るローカル保養地に過ぎなかったのである。

しかし、山岡の考えは違った。未曽有の国難とも言われた日露戦争(1904~05年)の終結から5年以上の歳月が流れ、心理的な余裕も生まれた国民の間には観光ブームが芽生えつつあった。明治時代の最後となる1912年にはJTBの前身である「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」が創業していた。

その機運を感じ取った山岡が白羽の矢を立てたのが別府温泉、そして阪神と別府をつなぐ瀬戸内海の航路であった。

「海の女王」の登場で別府航路の人気沸騰

「海の女王」の登場で別府航路の人気沸騰1
1912年、大阪商船が別府航路に投入した「紅丸」

1912(明治45)年5月28日、午前10時。「紅丸」は大阪を出港した。そして正午過ぎには熱烈な出迎えを受けながら神戸港に入港した。紅丸はもともと北ドイツ・ロイド(現在のハパックロイド)が、中国の揚子江(長江)で使っていた船であった。

山岡はこれを買い取り、瀬戸内海航路に投入したのである。1399トン・全長73メートルと、明治末期としては驚くべき大型客船だった。建造から12年がたっていたが、半年間にわたる大改装で、まるで新造船とも見まごう姿でデビューした。

1等はベッド付きで定員20名、畳の上に毛せんを敷き、カーテンで仕切る2等は152人、畳だけの3等は定員292名。当時の貨客船の2倍というスケールで、浴室・娯楽室も完備。スピードも当時としては破格の12ノット(時速およそ22キロ)。

常識をはるかに超えた「海の女王」の登場であった。紅丸効果もあり、別府航路は初就航から人気上々の滑り出しだった。当時のダイヤは隔偶数日、つまり中3日おきの偶数日に大阪と神戸を出港となっていた。別府までは丸1日を要したが、このころ大阪から別府に行くには鉄道と関門連絡船を乗り継がねばならず、おまけに鉄道では硬い座席に長時間座りっぱなしと、かなりの苦痛を伴った。

それに比べて、紅丸は豪華な船内生活を楽しみつつ、快適に別府まで移動できた。海の女王に憧れた京阪神からの多数の観光客が、紅丸に乗って別府に向かった。
山岡の狙いは、見事に当たった。

戦前の黄金時代を彩る「瀬戸内の快速船」

戦前の黄金時代を彩る「瀬戸内の快速船」1
1921年にデビューした新造船「紫丸」

1916(大正5)年には別府港に大阪商船専用の桟橋が設置され、紅丸も接岸できるようになり、1923(大正12)年には「屋島丸」が船隊に加わり毎日1便制が実現した。このころから大阪、神戸から別府に出かける観光客だけではなく阪神間と四国・九州を結ぶ「海の動脈」として一般客も増えていた。

スピードアップを求める一般客の声にこたえるように、大阪商船は次々と高速船をデビューさせる。「紫丸」「紅丸(2代目)」「緑丸」「菫丸」「に志き丸」「こがね丸」。1921(大正10)年から1936(昭和11)年までの16年間に1500~1900トン級の6隻が相次いで就航していった。

戦前の黄金時代を彩る「瀬戸内の快速船」2
ディーゼルエンジンを搭載し14ノットの快速を誇った「2代目紅丸」は1924年に就航

なかでも2代目紅丸の登場は、日本の客船史上画期的な出来事でもあった。紫丸までは日本で建造される船の主機関はピストン式のレシプロ・エンジンだったが、1924(大正13)年に完成した2代目紅丸からの5隻はいずれも現代の商船と同じディーゼルエンジンを搭載した。

ちなみに日本で初めてディーゼルエンジンを積んだのは1924年1月に建造された大阪商船の「音戸丸」である。2代目紅丸はこれに遅れること半年余りであったが、大きさは音戸丸の2倍以上、速度は14ノット(時速およそ26キロ)と当時としては驚異的なスピードを誇った。そして「瀬戸内の快速船」として話題になったのである。

1929(昭和4)年に菫丸が登場したことで、別府航路は1日1便制から毎日運航の昼夜2便制が実現。別府航路の黄金時代はピークを迎えた。

戦雲が招いた関西汽船の誕生

戦雲が招いた関西汽船の誕生1
日中戦争直前の1936年に就航した「こがね丸」は太平洋戦争末期には徴用され南方戦線への輸送の任についた

しかし、日本は暗い時代への坂道を転がり落ち始めていた。1937(昭和12)年、盧溝橋事件を契機に日中戦争が勃発。そして1941(昭和16)年12月の真珠湾攻撃で太平洋戦争に突入した。

花形航路であった別府航路も、日本を黒く覆った戦雲とは無関係ではなかった。戦争の長期化で燃料不足は深刻となり、戦時中という空気からレジャーを求める乗客も急減。別府航路の華やかさは急速に色あせていく。

1942(昭和17)年、逓信省・海務院は「瀬戸内海航路統制要綱」を発布する。燃料不足と運航会社の乱立による海上輸送の行き詰まりに対応するため瀬戸内海航路を再編するのが目的だった。大阪商船など7社は合同で新会社設立を申請。同年5月、関西汽船(本社は大阪北区)が認可された。

航路開設からちょうど30周年で、別府航路は大阪商船から関西汽船の手に移ったのである。

真っ黒に塗りつぶされたファンネル

新会社のファンネルマークは「白線一筋」。瀬戸内海一元化によって誕生したいきさつを、シンプルな一筋の白線に込めたのだ。

しかし、関西汽船の第一船にはそのマークはなかった。関西汽船設立から10日目の1942年5月15日、神戸を出港した「むらさき丸」が関西汽船の別府航路第1船だった。
もとの名は「紫丸」。別府航路の黄金時代を彩った名船は、2代目「紅丸」「菫丸」とともにひらがな名に改名していたのだ。そしてこれ以後、別府航路の新造船はひらがな名が続くこととなる。

むらさき丸のファンネルは真っ黒に塗りつぶされていた。戦時海運管理令によって関西汽船の船舶はすべて国の支配下にあり、自社船といえども会社のファンネルマークを付けることは禁じられていた。

このような息苦しい時代でも1日1便の定期運航は何とか維持された。だが、戦局の悪化に伴い1945(昭和20)年5月、ついに定期運航は停止となった。「くれない丸」、「すみれ丸」、「こがね丸」など別府航路の黄金時代を築いた船たちは次々と軍に徴用され、兵員と物資の輸送船として南方へ。そして「瀬戸内の快速船」として一世を風靡した「くれない丸」は、フィリピン沖に沈んだ。

室戸丸の悲劇と別府航路の復活

1945年8月15日正午。ラジオから流れる玉音放送は戦争の終わりを告げていた。
平和が戻った日本で問題となったのは、緊急物資や疎開先から戻ってくる人たちの輸送力確保である。鉄道網だけでは足りない。

こうした事情で、終戦からわずか1か月後、緊急を要する航路から運航が再開されていく。関西汽船は同年10月7日だった。別府航路再開の第1船は「室戸丸」である。しかし大阪を出港直後、西宮沖で大量に敷設されていた機雷により「室戸丸」は沈没し、多くの犠牲者を出す悲劇となった。

「室戸丸」を含め、関西汽船は戦争で50隻を失った。こうした悲劇を乗り越えて、関西汽船の別府航路が定期的に再開されたのは1946(昭和21)年春のことである。

室戸丸の悲劇と別府航路の復活1
終戦から3年後の1948年に新造された「るり丸」

 
関西汽船は1946年から足かけ3年間で9隻の新船を建造した。別府航路には「あけぼの丸」「あかね丸」(いずれも1038トン)そして「るり丸」(1876トン)の3隻が登場し、再出発の体制も整った。しかし、終戦直後の混乱と深刻な不況の影響で、なかなか客足は伸びなかった。

『憧れのハワイ航路』秘話 

1948(昭和23)年、『憧れのハワイ航路』がキングレコードから発売された。歌は岡晴夫、作詞は石本美由紀(1924~2009年)だった。石本に、ハワイ航路の乗船体験は全くない。

広島県大竹市にあった石本の生家は、宮島や江田島など瀬戸内海を見渡せる風光明媚な場所に建っていた。幼少のころからぜんそくを患っていた彼にとって、窓から眺めていた別府航路の大型客船は心を慰めてくれる存在であり、憧憬の的であったろう。

『憧れのハワイ航路』は、石本が瀬戸内海を優雅にゆく別府航路の船をイメージしながら作詞したという。

岡晴夫の伸びやかな歌声と、希望に満ちた石本の歌詞。
それにつられるかのように時代は明るさを取り戻していき、別府航路の業績も次第に上向いていく。(続)

瀬戸内感動クルーズで
歴史に思いを馳せながら優雅な船旅を。
関西~九州航路「さんふらわあ」はこちら
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