今昔ものがたりvol6アイキャッチ

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久しぶりに、横浜大さん橋に出かけてみた。 ちょうど1隻の小さな客船が出航するところだった。「ロイヤルウイング」という、この船ではランチやディナーなど、食事をとりながら横浜港をめぐるクルージングを定期的に行っている。食事だけではなく、結婚式も行われるようだ。

港ヨコハマの風景を彩るロイヤルウイング。実は船齢60年近いオールドシップであり、かつては「瀬戸内海の女王」の異名をほしいままにした。そんなことを知っている人は、どのくらいいるのだろう。

賑わいを取り戻した別府航路、乗客数も100万人の大台に

賑わいを取り戻した別府航路、乗客数も100万人の大台に1
戦後すぐに就航した「あけぼの丸」「あかね丸」は1038トンに過ぎなかった。

関西汽船の別府航路が終戦直後の低迷を脱し、業績が上向きになるのは1952(昭和27)年のことである。この年、4月にサンフランシスコ平和条約が発効し、連合国による6年8か月の占領にもようやくピリオドが打たれた。神戸港の接収は同年3月に解除された。そして国民生活が安定するとともに、別府航路も少しずつ戦前の賑わいを取り戻していく。

1952年からの3年間、乗客数は53万人→63万人→73万人と毎年10万人ずつ増加し、1959(昭和34)年にはついに100万人の大台を突破するにいたった。時はまさに高度経済成長時代。観光シーズンになれば「あけぼの丸」「あかね丸」「るり丸」は超満員となった。

こうした事態を受け、関西汽船は1958(昭和33)年に、高速を誇る大型観光客船の建造計画を発表した。大きさは「あけぼの丸」「あかね丸」の3倍もある3000トンクラスで、ホテル並みの豪華な設備を持つ。さらに、従来船では17時間かかっていた神戸~別府間を、新造船では一気に4時間も短縮できるという。

「瀬戸内海の女王」の誕生

「瀬戸内海の女王」の誕生1
1960年に就航した「くれない丸」は別府航路の黄金期を象徴する船だった。

当時の別府航路は1日2便で、いずれも夜間に瀬戸内海を航行していた。これは早朝に神戸を出港しても、別府到着は深夜になるためであった。「東洋のエーゲ海」と称えられる瀬戸内の「多島美」を、夜間航海では楽しむことができない。新造船計画が成就すれば、日中の瀬戸内を航行し、日暮れには別府に到着できるようになる。

しかし新造船計画には、一つ障害があった。1隻の建造費には当時の額で10億円もの巨費が必要だったのだ。ここで新造船実現のために奔走したのが荒金啓治・別府市長だった。

「別府、いや、九州全般の発展のためにお願いします」
関西汽船への協力を求め、荒金市長は日本開発銀行など関係先に要望書を提出するなど、精力的に動き回る。兵庫県や神戸市なども陳情に加わった。

こうして1959年11月、新造第1船が三菱重工神戸造船所で進水。「くれない丸」と命名された。別府航路の開設を飾った初代「紅丸」から数えて3代目。新造船に関西汽船は伝統の船名を与えた。それだけ社運を賭けた船だったということがわかる。

「くれない丸」は2999トン。スマートな流線形の船体が美しい。速度は最高19.6ノット(時速36キロ)という快足を誇った。船内施設も破格であった。映画やダンスパーティーにも使われる大娯楽室があり、瀬戸内海の風景が楽しめるように最上甲板には展望室が設けられた。冷暖房完備、1等室の廊下はじゅうたん敷き。まさに文句のつけようのない豪華客船であった。この優雅な「くれない丸」に「瀬戸内海の女王」の愛称が贈られた。

華やかな「新婚旅行船」

1960(昭和35)年3月6日午前8時40分。白とグリーンの船体が色鮮やかな「くれない丸」は、神戸中突堤を出港した。虹のような七色のテープが乱舞し、色とりどりの風船が空に舞った。見送る人の数は1000人を超え、瀬戸内海の女王にふさわしい華やかな旅立ちとなった。

華やかな「新婚旅行船」1
「くれない丸」の半年後の「むらさき丸」就航で昼間の観光便は1日1便のダイヤに。

同年9月には姉妹船「むらさき丸」も就航。観光便は大阪・神戸と別府をそれぞれ朝のうちに出発する1日1便のダイヤとなった。この年の年間乗客数は132万5000人。前年よりも一気に30万人増となった。「くれない丸」効果がはっきりと表れた数字だった。

1963(昭和38)年、「すみれ丸」「こはく丸」の2隻が新たに就航し、観光船は4隻の1日2便に拡充した。これに普通便1便を加えると年間145万人が乗船した。10年前と比べ、実に2倍以上の増加である。

華やかな「新婚旅行船」2
「すみれ丸」「こはく丸」の投入で別府航路は絶頂期を迎えた。

 
 
筆者の叔父は、新婚旅行で神戸から別府に観光船で出かけたという。確かにこのころ、別府航路は新婚旅行のカップルの姿が目立ち、「新婚旅行船」とも呼ばれていた。1966(昭和41)年4月に昭和天皇・皇后両陛下が「こはく丸」に、同年11月には天皇・皇后両陛下(当時は皇太子・皇太子妃)が「るり丸」にご乗船。

別府航路の黄金時代を象徴する出来事に彩られたが、時代の変化の波はすぐ足元にまで押し寄せていた。

大阪万博が呼んだフェリー時代の到来

転機となったのが1970(昭和45)年に大阪で開催された万国博覧会である。日本のみならずアジア史上初の万博ということもあり、日本国内ではこれまでにない多くの人の流れが予想された。こうした流れを先取りしようと、瀬戸内海でも動きが出始める。

まずは1968(昭和43)年、阪九フェリーが神戸~小倉間に全国初の長距離カーフェリーを就航させた。万博開幕1か月前の1970年2月には神戸~大分間にダイヤモンドフェリーが登場する。

カーフェリーの登場は、マイカーの普及とトラック輸送の増加が背景にあった。急激なモータリゼーションの波に道路整備は追い付かず、渋滞知らずのフェリーが求められたのは自然な流れであった。ましてや万博開催で人はもちろん物流も活況を呈する関西~九州ルートにおけるカーフェリーの登場は必然であった。

万博人気は想像以上に過熱した。183日の会期中、およそ6422万人が北大阪の千里丘陵にある会場に押し寄せたのである。関西汽船も1970年は「万博特需」に沸いた。別府航路の利用者は150万人を記録。例年だと関西→別府が多い乗船者数も、この年ばかりは神戸・大阪行きのほうが上回るという逆転現象が起きている。

しかし、トラック輸送ばかりでなくマイカー利用のレジャー客も急増し、フェリー人気はうなぎ上りに。「人しか運べない客船はもはや時代遅れ」という声も上がり始めていた。

「ガレージ付き客船」の陰口も何のその

「ガレージ付き客船」の陰口も何のその1
別府航路に初めて投入されたフェリーが「ゆふ丸」。「客船」にこだわる関西汽船らしく積めたのは乗用車だけ。

瀬戸内海航路の老舗・関西汽船もその伝統にあぐらをかいている余裕はなくなっていた。
万博が幕を閉じてから半年、関西汽船は初めてのフェリーを別府航路に投入したのである。
1971(昭和46)年3月に「ゆふ丸」が、6月に「まや丸」がデビューした。別府航路が新たな時代に突入したことを知らせる2隻の船であった。「ゆふ丸」は3205トン、乗客定員が1200人であり、「まや丸」は3611トン、乗客定員が1000人である。いずれも乗用車が50台積める。

関西汽船がフェリー就航に踏み切った一方、瀬戸内海航路はさらに新船社の参入が相次ぎ、1973(昭和48)年には6航路が開設。百花繚乱の観を呈した。それでもバスやトラックが利用する他社の大型フェリーに対して、関西汽船のフェリーに積める車は乗用車だけ。「ガレージ付き客船」との陰口もたたかれた。

関西汽船には「別府航路は客船の航路である」という矜持が強かった。それが色濃く表れたのがレストランであった。船内レストランは神戸・北野の「北野クラブ」が担当した。関西汽船が名門レストランに調理を依頼したのだが、その一流の味は「ゆふ丸」「まや丸」の売り物のひとつとなった。

斜陽の別府航路

フェリーとの競争が激化する中、新たなライバルが登場する。1975(昭和50)年3月10日。新幹線が東京から博多まで全線開通した。新神戸から、別府にいたる日豊本線に接続する小倉まで、たったの3時間ちょっと。小倉で日豊本線の特急列車に乗り換えれば、神戸から別府まで約5時間である。別府航路で快足を売りにした「くれない丸」ですら13時間かかる。当然ながら、ビジネス客の利用は新幹線に流れた。

また、空にも強力なライバルが出現した。昭和40年代後半から、日本人の海外旅行が急増している。旅客機の発達がその数字を後押ししていた。ハワイ、アメリカ西海岸、ヨーロッパ。海外への新婚旅行も珍しいものではなくなっていた。

それに反比例して、別府への旅行者は急減する。別府航路の利用客は1979(昭和54)年にはピーク時の半分程度となり、「くれない丸」「むらさき丸」の乗船率も25%前後に下落した。また1975年12月の時刻変更で、両船の運行時間が景色を楽しめない夜行便に変更されたことも人気急落に拍車をかけた。

関西汽船の経営環境は厳しさを増し、そして1978(昭和53)年7月、ついに経営再建のため来島どっくが関西汽船の筆頭株主となった。

「くれない丸」第2の船生は横浜で

再建を目指す来島どっくの下で、改革が進められた。1980(昭和50)年11月と12月に、来島どっくより「フェリーこがね丸」と「フェリーにしき丸」を相次いで用船し、別府航路に就航させた。

これによって「瀬戸内海の女王」の異名をほしいままにしてきた「くれない丸」と「むらさき丸」は定期航路から引退を余儀なくされることとなった。1日3便のうち2便はフェリーとなり、別府航路における客船の時代は事実上幕を閉じた。

デビュー当時は常識破りの快足を誇った「くれない丸」も、引退時には別府航路で最も鈍足な船となっていた。1981(昭和56)年、定期航路引退後もときおり代走として就航していた「くれない丸」「むらさき丸」は21年間にわたる船旅を終えた。

その後の両船は、まったく対照的な運命をたどる。「むらさき丸」は1987(昭和62)年9月26日、岡山日生で解体された。いっぽう、「くれない丸」は佐世保重工業に売却され、しばらく係船されたのち、1988(昭和63)年に日本シーラインによってレストランシップに改装された。名前も「ロイヤルウイング」と改称された。

そして冒頭のように、現在も横浜港大さん橋を母港とする横浜港東京湾クルーズ客船として活躍している。

かつて瀬戸内の新婚旅行船として絶大な人気を誇った「くれない丸」。第二の人生ならぬ船生で、やはりウェディング・シップとしても現役続行中だ。これも何かの縁なのだろう。(続)

瀬戸内感動クルーズで
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