今昔ものがたりVol8アイキャッチ

もくじ

年に4回のみ実施されるプレミアムな船旅。それが「昼の瀬戸内感動クルーズ」だ。1975年まで存在した関西汽船・別府航路の昼行便の雰囲気を満喫できるとあって、毎回満船の人気ぶりだ。

ただ、往時とは航路が異なる。感動クルーズのそれは神戸→大分だ。実はこれ、関西汽船のライバルだったダイヤモンドフェリーの航路である。さらに感動クルーズとは逆ルートで、ダイヤモンドフェリーが定期的に昼行便を運航していた時期があった。

ダイヤモンドフェリー誕生

いまからちょうど50年前の1968(昭和43)年5月、阪神地区の内航船会社や大分と愛媛の企業代表者10名を発起人として九四阪神フェリー株式会社が設立された。当時は大阪万国博覧会の開催が2年後に迫り、阪神と四国・九州間で人やモノの移動が大規模になることが確実視されていた。

九四阪神フェリーはその流れに乗り遅れまいと設立された。翌年にはダイヤモンドフェリーと改名し、1970(昭和45)年2月に大分~神戸で第1船「フェリーゴールド」が就航した。翌月には「フェリーパール」が就航し毎日運航となった。同年7月には松山寄港も開始。9月には第3船「フェリールビー」が就航し、3隻体制をとったダイヤモンドフェリーは別府航路を運航する老舗の関西汽船と競合する新興勢力となった。

ただ、当時の関西汽船が「旅客のみを扱う」客船にこだわったのに対し、ダイヤモンドフェリーは車無しの一般乗客の乗船を認めず貨物重視路線をとっていた。ダイヤモンドフェリーの全区間で一般徒歩客の乗船が可能となるのは1982(昭和57)年12月まで待たねばならない。

関西汽船との競争、そして共存

関西汽船との競争、そして共存1
1986年に就航したフェリーダイヤモンド 撮影:カナマルトモヨシ

1971(昭和46)年、来島どっくの傘下に入ったダイヤモンドフェリーとフェリー化へと舵を切った関西汽船の競争は、同じ来島どっく傘下でありながら80年代に入っていっそう熾烈を極めた。

ダイヤモンドフェリーは1986(昭和61)年秋に「フェリーゴールド」「フェリーパール」に代え「クイーンダイヤモンド」「フェリーダイヤモンド」、1990(平成2)年に「ブルーダイヤモンド」、1991(平成3)年には「スターダイヤモンド」と相次いで新造船を投入する。

ところが事態は一変する。1990年、ダイヤモンドフェリーは関西汽船や室戸汽船とともに、来島グループから大阪商船三井船舶(現・商船三井)傘下に入ったのだ。それ以降、両社は競争から一転して共存の時代に突入する。

2003(平成15)年4月、かつてのライバルであるダイヤモンドフェリーと関西汽船は業務提携。「さんふらわあ こがね」「さんふらわあ にしき」の2隻が就航する上り便(大分~神戸)で共同運航を開始することとなった。

関西汽船との競争、そして共存2
ダイヤモンドフェリーと関西汽船が同居した旧大分港ターミナル 
撮影:カナマルトモヨシ

関西汽船との業務提携は、ダイヤモンドフェリーに2つの出来事をもたらした。ひとつは「クイーンダイヤモンド」の引退。これによりダイヤモンドフェリーは「フェリーダイヤモンド」「ブルーダイヤモンド」「スターダイヤモンド」の3隻体制となった。

素晴らしき瀬戸内海昼行便

そしてもうひとつが瀬戸内海昼行便の誕生である。これは大分を朝7時30分に出港し、11時に松山着。11時45分に出港し、13時25分に今治着。14時10分に出て、神戸六甲アイランドに夜21時に到着。トータル13時間30分、日中の瀬戸内海を横断する昼行便であった。

これは関西汽船の別府航路のような観光航路ではなく、貨物をメインにした航路である。乗客の主力はトラックドライバーだった。しかし、そんな船内が旅客でにぎわう時間帯があった。それは松山から今治までの1時間40分。週末および祝日だけに見られる現象だった。

筆者は2005(平成17)年、瀬戸内海昼行便の「フェリーダイヤモンド」にフル乗船したことがある。静かだった船内。それが一変したのは松山入港後である。たくさんの親子連れや団体旅行客が乗船し、そのままレストランでランチを楽しむ。

素晴らしき瀬戸内海昼行便1
瀬戸内ミニクルーズのハイライト・来島海峡大橋の通過 撮影:カナマルトモヨシ

この日はたまたま日曜日。乗用車1台&5人までトータルわずか3000円という価格設定の「瀬戸内ミニクルーズ」の参加者はゆうに100名を超えていた。食後、乗客らは賑やかに船内探検を楽しんでいたが、やがてこぞってデッキに駆け上がっていく。

素晴らしき瀬戸内海昼行便2
来島海峡大橋をくぐるフェリーダイヤモンド 撮影:カナマルトモヨシ

13時、瀬戸内ミニクルーズのハイライトがやってきた。来島海峡大橋の下を通過する。「ファンネルと橋がぶつかっちゃうよー!」。そんな子どもたちの悲鳴はまもなく、無事に通過したことを確認した大歓声に変わる。

素晴らしき瀬戸内海昼行便3
往時の今治港 撮影:カナマルトモヨシ

今治に到着し、瀬戸内ミニクルーズの乗客がいっせいに下船すると、それまでの喧騒がまるで嘘のように船内は静寂を取り戻す。しかし、真の瀬戸内クルーズは今治を出てからだったように思う。

素晴らしき瀬戸内海昼行便4
黄昏迫る瀬戸内海を神戸目指して進む 撮影:カナマルトモヨシ

夕陽に輝く瀬戸内と島々。行き交う他社のフェリーや貨物船を眺めているうちに、黄昏が訪れ、やがて漆黒の闇としじまのように輝く星空が広がる。ライトアップされた明石海峡大橋をくぐり、神戸の街並と六甲山脈に広がる夜景が徐々に迫ってくると、この船旅は大団円を迎える。このような素晴らしい瀬戸内クルーズがいつまでも続いてほしいと願った。

消えた「ダイヤモンドをつけたイルカ」

消えた「ダイヤモンドをつけたイルカ」1
ファンネルにダイヤモンドマークをつけていた時代の「さんふらわあ ごーるど」の貴重な姿。2007年12月 撮影:カナマルトモヨシ

2007(平成19)年11月21日、新造船「さんふらわあ ごーるど」が、大阪~別府間の関西汽船運航便に就航した。これにともない「さんふらわあ こがね」がダイヤモンドフェリー運航航路へ移り、筆者が瀬戸内昼行便を楽しんだ「フェリーダイヤモンド」は引退となった。

この年の末、筆者はやはり大分から「さんふらわあ ごーるど」に乗船した。「フェリーダイヤモンド」などダイヤモンド3姉妹の船体塗装は、白地にダイヤモンドフェリーのシンボルともいえる「ダイヤモンドをつけたイルカの絵」が描かれていた。しかし、新造船は真っ赤なひまわりが描かれた「さんふらわあ塗装」であった。

また、ダイヤモンドフェリーといえば、会社のイニシャルDをあしらったファンネルマークとブルーの塗装がトレードマークだった。ただ、「さんふらわあ ごーるど」では、「さんふらわあレッド」と呼ばれる赤色になっていた。

2008(平成20)年1月16日、「さんふらわあ ぱーる」がデビュー。「さんふらわあ ごーるど」とともに中九州航路(神戸~大分)の直航便に就航した。新造船の名はともにダイヤモンドフェリー創成期の船へのオマージュだったが、ダイヤモンドフェリーそのものは急速に消滅に向かっていた。

消えた「ダイヤモンドをつけたイルカ」2
2008年2月に引退したブルーダイヤモンド 撮影:カナマルトモヨシ

「さんふらわあ ぱーる」が船出したその日、「スターダイヤモンド」が引退。さらにその3週間後の2月7日、「ブルーダイヤモンド」も引退する。こうしてダイヤモンドをつけたイルカの絵をあしらったブルーの船はすべて姿を消した。

2009(平成21)年6月1日、今治港への寄港が廃止。さらに翌年2月1日に関西汽船と共同運航の寄港便を廃止したことで、日中の来島海峡大橋の通過も見られなくなった。そして2011(平成23)年10月1日、ダイヤモンドフェリーは関西汽船とともにフェリーさんふらわあに合併され、ダイヤモンドフェリーの名は消えた。

ただ、その神戸~大分航路はフェリーさんふらわあの航路として残った。わずか5年足らずと短命に終わった瀬戸内昼行便も、年4回の感動クルーズに姿を変えた。

この船旅には関西汽船の栄光だけでなく、ダイヤモンドフェリーが放った、はかなくもまばゆい輝きをみとめることができる。

瀬戸内感動クルーズで
歴史に思いを馳せながら優雅な船旅を。
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