もくじ
2018年の3月上旬。筆者はJMU(ジャパンマリンユナイテッド)横浜事業所磯子工場にいた。約2か月後にデビューを控えた新船「さんふらわあ さつま」の内部を一足早く取材するためである。 ところどころまだ工事中だった船内を見終え、最後に船体を眺めてみた。ここであることに気が付いた。先代の「さんふらわあ さつま」と姉妹船「さんふらわあ きりしま」の船首から船尾にかけて引かれている青いライン。それが新船にはなかったのである。 案内を務めてくださった方は、やや感慨深げに言った。「ブルーハイウェイラインのシンボルも、この新造船からは消えてしまうことになりますね」。
日本沿海フェリーからブルーハイウェイラインへ
時は1990年にさかのぼる。
「さんふらわあ5姉妹※」で70年代に一世を風靡した日本高速フェリーは、北海道航路(東京~大洗~苫小牧)を運航していた日本沿海フェリーに、東京~那智勝浦~高知航路と大阪~志布志~鹿児島航路の営業権を譲渡。それにともない「さんふらわあ5」「さんふらわあ8」「さんふらわあ11」も移籍した。
※さんふらわあ5姉妹(「さんふらわあ」「さんふらわあ2」「さんふらわあ5」「さんふらわあ8」「さんふらわあ11」)については以下の記事を参照ください。
≫Vol.2 クルーズブームの先駆けとなった初代「さんふらわあ」の衝撃と「5姉妹」
11月1日、日本沿海フェリーは鹿児島航路(1991年末に志布志〜鹿児島間が廃止)の営業開始を機に「ブルーハイウェイライン」へと社名を変更した。「ブルー」は海、「ハイウェイ」は陸で明るく軽快な旅客輸送と海陸一貫の貨物輸送、二つを組み合わせたブルーハイウェイは「海のバイパス」と「長距離フェリー」、ラインは「定期輸送」を意味した。
先代「さんふらわあ さつま・きりしま」デビュー
1993年3月24日、「さんふらわあ さつま」(2代目)が大阪~志布志航路に就航。ブルーハイウェイラインでは初の新造船であり、この船から従来のさんふらわあの太陽マークに加え胴体前方と後方の上部に青のラインが入るカラーリングが採用されている。8月26日には姉妹船「さんふらわあ きりしま」(2代目)が同航路に就航した。
いずれも「さんふらわあ5姉妹」の後継船ということで、内装・施設ともにそれを引き継いだ感があった。「地中海の風」を2隻の共通テーマとして掲げ、南仏やスペインのコスタ・デル・ソルをイメージした名前の展望サロン、ラウンジ、グリル、スナックが設けられた。これらはのちに展望サロンを除いて、それぞれツーリストルーム、フリースペース、自販機コーナーへと姿を変えてしまうが、就航当初は「さんふらわあ5姉妹」のような快適なクルージングを意識した船であった。
ブルーハイウェイライン西日本の設立
新造の2隻は1997年4月からしばらく活躍の場を北に移している。ブルーハイウェイラインの東京~苫小牧航路に就航(同年9月には大洗港への寄港追加)していたのだ。さつま・きりしまという名の船が北海道に向かうのは何ともミスマッチな感じもする。両船は1999年4月4日から志布志航路に復帰した。
このように南北に長大な航路を有したブルーハイウェイラインだが、徐々に再編が行われていく。2000年2月には分社化でブルーハイウェイライン西日本が設立され、4月には志布志航路が同社に譲渡された。次に2001年3月、北海道航路をブルーハイウェイラインから引き継ぐことを前提に商船三井フェリーが設立された。再編の仕上げとして同年10月1日、日本高速フェリー時代の名残であった東京〜那智勝浦〜高知航路が廃止。ここにブルーハイウェイラインは解散した。
幻に終わったさんふらわあ宮崎航路
航路再編計画はまだ存在した。それは志布志航路の廃止であった。ブルーハイウェイライン西日本という長い名前を短縮した「ブルハイ西日本」という呼び方で愛された同社。それが存在したのは足かけ8年間に過ぎない。
その設立は、寄港先を宮崎港に変更する前提があったという。採算が良くない志布志航路を廃止し、2007年4月1日から大阪~宮崎での運航を実施することがほぼ決まっていた。
ところが、宮崎港への移転に関して従来から大阪~宮崎間の航路を運航している宮崎カーフェリー(現在は神戸~宮崎)との使用岸壁の協議が不調。結局、宮崎移転は幻となってしまった。
こうして志布志航路は存続したが、ブルハイ西日本は2007年7月1日にダイヤモンドフェリーに経営統合された。ここに日本からブルーハイウェイラインという船社名が消えた。
大阪南港かもめフェリーターミナル
筆者はブルハイ西日本末期の2006年、大阪から「さんふらわあ」で2度、志布志に行ったことがある。いずれも船は「さつま」であった。
大阪南港のフェリーターミナルといえば、ニュートラム(正式名称は大阪市高速電気軌道南港ポートタウン線)のフェリーターミナル駅から長い歩行者専用通路を渡って行く建物を思い浮かべる人が多いだろう。かつては別府航路のさんふらわあもここから発着していた。
しかし、ブルハイ西日本・志布志航路のターミナルは、別の場所にあった。そこへ行くには歩行者専用通路の途中の階段を降りたところにある南港バスターミナルから「南港南六丁目」行きバスに乗らねばならない。
バスに揺られること10分ほど、大阪南港かもめフェリーターミナルに着いた。ちょっと古びた雰囲気の南港ターミナルに比べて、建物は小ぎれいな感じはするが、周囲には住宅も店舗なく、殺風景な印象が先に立つ。ターミナル内は思った以上に広く、乗船手続きを済ませた船客が腰かけるイスが数多く並んでいた。
ターミナルは台湾までつながっていた
乗降口には「さんふらわあ さつま」のモデルシップがガラスケースに入れられており、その先に停泊している本物のさんふらわあと「そろい踏み」の写真を撮影できるのも、フェリー愛好家にはひそかな楽しみでもあった。
2006年当時、かもめフェリーターミナルからはブルハイ西日本のほかに宮崎カーフェリー、さらに沖縄や石垣島さらに台湾南部の高雄までゆく有村産業の船が出ていた。この年の5月、筆者はここから有村産業の「クルーズフェリー飛龍21」に乗って、那覇・石垣を経由して台湾まで4泊5日の船旅をしたのもいい思い出だ。
しかし3社の船が出入りする時代はまもなく終わる。まず2008年に有村産業の沖縄・台湾航路が無くなり、2014年10月には宮崎カーフェリーが神戸に移転。そして2017年1月31日より、フェリーさんふらわあが志布志航路の大阪港発着地をコスモフェリーターミナル(現さんふらわあターミナル)に移したことで、かもめフェリーターミナルはその使命を終えた。現在、フェリーターミナルの建物は撤去され、更地になっている。
新さつまに託されたブルハイスピリット
再び2018年3月の横浜に戻る。
新造船「さんふらわあ さつま」の船体にはブルーハイウェイラインのシンボル・青のラインは描かれていなかった。真新しい新造船のたたずまいに、間近に迫ったデビューへの期待を抱いたのは当然である。と同時に、青のラインが見られなくなってしまうことへの一抹の寂しさも混ざった複雑な感情があったことは否めない。
3か月後、このモヤモヤした感情は消えた。大阪のさんふらわあターミナル(大阪)第2ターミナルに停泊する新「さんふらわあ さつま」に初めて乗船した。
エントランスホールに1枚の大きなイラストを見つけた。それは商船三井の名誉船長でもあった画家・柳原良平さんが描いた先代「さんふらわあ さつま」デビュー時の姿である。その右下には、「信頼・安全・確実」を表す3本の青い線によるブルーハイウェイラインのシンボルマークが残されていた。それは日本に快適なクルーズ文化を生み出した「さんふらわあ5姉妹」そしてブルハイのスピリットが、新造船にも受け継がれるようにとの願いに思えた。
ブルハイが生んだ2隻の、ちょっと数奇な引退劇
2018年の国内フェリーの出来事を振り返ると、新造船「さんふらわあ さつま」「さんふらわあ きりしま」デビューに沸いた1年だったと言える。
その一方で、ブルーハイウェイラインが生んだ2隻が一線を退いた。その引退は船名変更とともに先延ばしにされるという、ちょっと数奇なものでもあった。旧さつまは4月に「さんふらわあ さつま1」に改名。新さつまの就航後は「さんふらわあ ぱーる」長期運休の代替として、神戸~別府間で8月26日まで臨時運航。旧きりしまは新きりしまの就航後、船名を「さんふらわあ きりしま1」に変更。10月2日から31日まで新さつまの船体整備にともなう代船として、また11月29日から12月16日までは新きりしまの代船として志布志航路で臨時運航を行った。
いずれもその最終航海は、引退を惜しむ人たちで満船であったという。
金丸知好(カナマルトモヨシ)/航海作家
1966年富山県生まれ。日本のフェリーだけでなく外国航路や、中国や韓国の国内フェリーにも乗船経験が豊富。フェリー専門誌「フェリーズ」(海事プレス社)の執筆、「クルーズ」誌(同)に「フェリーdeクルーズ」を連載している。主な著書に「アジアフェリーで出かけよう!」(出版文化社)、「フェリーでGO!」(ユビキタスタジオ)、「超実践的クルーズ入門」(中公新書ラクレ)など。
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