さんふらわあ今昔ものがたりVol.10アイキャッチ

もくじ

真夜中1時過ぎ。闇に包まれた太平洋へと出港する船がある。

夜が明けると、船体に描かれたひまわりが太陽に照らされる。そして夕陽が沈むころ、ファンネルと同じオレンジ色に染め上げられる。目的地への到着は午後8時になろうかという時刻。再び空は暗くなっていた。

北海道・苫小牧と茨城県・大洗を約18時間で結ぶ、商船三井フェリー深夜便。現在、「さんふらわあ だいせつ」「さんふらわあ しれとこ」が就航している。

大洗港で出航を待つ「さんふらわあ だいせつ」

深夜便。その響きには、ほのかにロマンが漂う。確かに、この航路に就航した数々の船たちは、さまざまな物語を紡いできた。

だいせつ・しれとこという2隻のさんふらわあの歩みを軸に、数奇で、しかしどこか詩的でもある深夜便のストーリーをたどっていきたい。

あの白い船、いったいどこに行くだぁか

島根県出雲市塩津町。日本海を望む高台に小学校があった。2019年3月23日。塩津小学校はその144年にわたる歴史に終止符を打った。この日行われた閉校式に出席した児童は、卒業する6年生を含み6人であったという。

その21年前の1998年6月のこと。

「あの白い船、いったいどこに行くだぁか・・・」

塩津小学校の校舎の窓から、日本海をゆく1隻の白いフェリーが見えることに気が付いた児童がいた。イルカのマークを付けた白い船は、毎日午前10時30分ごろに見られた。
それからというもの、子供たちは船への好奇心をどんどん募らせていった。

話はその2年前にさかのぼる。

1996年4月、東日本フェリー傘下の九越フェリーが新潟県・直江津と福岡県・博多を結ぶ西日本海航路を開設した。

まず、新造船「れいんぼうべる」が就航し、週3回の運航を始めた。翌97年3月には「れいんぼうらぶ」も就航し、2隻体制の毎日運航となった(北海道・室蘭への航路延伸により1998年9月から週3回・隔日運航になる)。

「れいんぼうらぶ」は、れいんぼうべる型の2番船。いわば妹である。船名は「国境を越え言葉を越えて人の心を強く結びつける愛の架け橋」の意味を込めて命名された。塩津小学校の子どもたちが見た白い船は、博多と直江津を結ぶ九越フェリーの「れいんぼう」姉妹だったのである。そして、「れいんぼうらぶ」は命名の願い通り、人の心を強く結びつける船となる。

映画化された「白い船」

映画化された「白い船」1
「ニューれいんぼうべる」の船内に掲示されていた「白い船」のポスター

塩津小学校の5・6年生は、社会科で学習している運輸に関する質問状を九越フェリーに送ることになった。それに対し、九越フェリーの船長や乗組員から丁寧な返事が届いた。子供たちの感激は、いかばかりであったろう。この出会いから船舶電話、FAX、手紙などを通した交流は始まった。そして子供たちの「白い船に乗ってみたいなあ」という夢も大きくなっていった。

その夢は、すぐに実現する。1998年の夏休み、塩津小学校の子どもたちは直江津から博多まで「れいんぼうらぶ」に乗船することができたのである。

映画化された「白い船」2
塩津小学校による映画撮影の見学記も「ニューれいんぼうべる」の船内に掲示されていた

こうした塩津小学校の児童と九越フェリーの交流は、全国的に話題を呼んだ。児童文学作家の倉掛晴美さんは、船内に貼ってあった塩津小学校の子どもたちが送った「海の子新聞」や手紙を見て心打たれ、『海の子の夢をのせて~ありがとう れいんぼう・らぶ~』(石風社)を2000年に出版した。

さらに2002年7月、これを原作とした映画『白い船』が上映される。監督は地元出身の錦織良成さん。主演は女優の中村麻美さん、白い船を発見した少年役を濱田岳さんが演じた。

しかし映画が公開された夏、白い船のモデルは日本海にはいなかった。

「れいんぼう」姉妹の引退

「れいんぼう」姉妹の引退1
「れいんぼうべる」はマリンエキスプレスに売却され「フェリーひむか」となった(写真提供:船が好きなんです.com)

映画『白い船』公開の前年(2001年)、「れいんぼう」姉妹が室蘭~直江津~博多航路から姿を消すことが決まった。

このニュースを知った塩津小学校の児童たちも大きなショックを受けたそうだ。そして、大好きだった白い船に別れを告げるため、全校生徒で「れいんぼうらぶ」に乗船することとなった。2001年6月23~24日のことである。直江津から乗船した児童たちを乗せた「れいんぼうらぶ」は、翌日の午前10時過ぎ、塩津沖を通り過ぎる。小学校の白い校舎が見えてきた。

塩津港が見えて来ると、塩津の漁師たちが漁船で「れいんぼうらぶ」を出迎えた。5・6年生が作った白い旗を振り、「れいんぼうらぶ」を追いかける船もあった。「れいんぼうらぶ」も可能な限り減速し、子どもたちと人々の交流を演出した。児童はみんなで「おーい!おーい!」と叫び、手を力の限り振った。そして「れいんぼうらぶ」はボォーと汽笛を鳴らし、塩津沖から遠ざかって行った。

この直後の7月9日、「れいんぼうらぶ」は引退。その3か月後には「れいんぼうべる」も後を追った。それらに代わり、「ニューれいんぼうらぶ」「ニューれいんぼうべる」という2隻の新造船が相次いでデビューした。

のちにそれぞれ「さんふらわあ だいせつ」「さんふらわあ しれとこ」という船名になるのだが、それはもう少し先の話である。

それにしても、新造デビューからわずか5年、あまりにも早すぎる「れいんぼう」姉妹の引退であった。

九越フェリーはその創設がすでに苦難の始まりであった。原因は、航路開設当初の週3便運航という使い勝手の悪いダイヤ、そして博多~直江津の西日本海における貨物需要の少なさにあった。さらに当時の不況が追い打ちをかけた。

「れいんぼうらぶ」を投入して毎日運航へと切り替えた後も、期待したような貨物の増加は見られなかった。ついに、シアターなど客船要素もふんだんに取り入れた「れいんぼう」姉妹に比べ、少々簡素化された「ニューれいんぼう」型に置き換えられてしまったのである。

「ニューれいんぼうべる」に初乗船

「ニューれいんぼうべる」に初乗船1

2005年3月初め。ヤフードーム(現在は福岡ヤフオク!ドーム)からタクシーで10分、博多港中央ふ頭の九越フェリーターミナルに着いた。ターミナルは、隣にある韓国行き国際ターミナルに比べて、とても小ぢんまりとした建物であった。

21時。徒歩乗船者のため、ミニバンでフェリー入口までの送迎が行われる。筆者を含め、乗っているのは5人。ひとりの若い男性は、ものすごく大きな荷物を抱えていた。彼は北海道の大学生で、10日間の九州一周自転車旅行を終えたばかり。大きな荷物は自転車だった。自転車を分解すれば手荷物扱いになり、車両料金を取られないためこうしているということだった。なお、博多から直江津を経由して室蘭まで乗船する一般客は、今回は彼だけだった。

22時、「ニューれいんぼうべる」は博多を出港した。2時間前まで、プロ野球のオープン戦を観戦していたヤフードームがぼうっと光り、漆黒の玄界灘に浮かんでいるように見えた。

このフェリーをもっと宣伝してやってくださいよ

このフェリーをもっと宣伝してやってくださいよ1

この船には一般客よりも、トラックドライバーがかなり多く乗船していた。翌朝、Mさんというドライバーとお話をする機会があった。Mさんは長崎の人で、青森のりんごを仕入れて再び長崎に戻る仕事をしている。だいたい月に4回ほど乗船し、多い時には年間80回も乗船するという。ずいぶん長いこと九越フェリーを利用しており、「れいんぼう」姉妹の時代もよくご存じである。「九越フェリーの生き字引」的な存在でもある。

仲間のドライバーたちとビールを飲みながら食事をしているMさんは言った。

「フェリーはね、トラックもタイヤも休めるから消耗も防げるし、何より自分の体が休まるのがいい。入港30分前に起きて顔を洗ったら、直江津から一晩で青森まで走るパワーがあふれるもんな。それから船旅はいろんな人に会えるのがいいわな。ふだんはなかなか話す機会のない人たちと意気投合したりね」

このフェリーをもっと宣伝してやってくださいよ2

そして最後に、こう言った。「このフェリーをもっと宣伝してやってくださいよ」

それは唯一の西日本海航路が消えてしまうと商売に差支えがあることも、もちろんあるだろう。しかし、それよりも九越フェリーを心から愛しているから出た言葉のように聞こえた。

14時30分過ぎ、能登半島の北岸が右舷側に見えてくる。もうここは北陸だ。1時間半ほど能登の風景を眺めていると、前方に白雪を頂に冠した山並みが見えてくる。妙高山であろうか。その山並みを眺めつつ、パーサーはぽつり。「今年は春の訪れが遅いようですね」

このフェリーをもっと宣伝してやってくださいよ4

18時、一足先に室蘭からやってきた「ニューれいんぼうらぶ」が停泊する直江津港が見えてきた。春から秋にかけ、日本海は穏やかなシーズンを迎える。次は直江津から室蘭まで乗ってみたいものだ。そう思い、「ニューれいんぼうべる」をあとにした。

この7か月後、再びこの船に乗る機会が巡ってくることを、このとき筆者はまだ知らない。
これが九越フェリーとして最初で最後の乗船となることも。

写真協力:船が好きなんです.com

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