もくじ

午後10時過ぎ、室蘭駅のホームに降り立った。 室蘭はこの先に線路のない行き止まりの「盲腸駅」である。駅舎こそ立派だが、駅前にはラジカセから大音量を響かせ、スケートボードに打ち興じる少年たちの姿しかない。ビートのきいた音楽とコンクリートに打ちつけられたスケボーの乾いた音。そして少年たちの騒ぎ声。それらがかえって、盲腸駅のさびしさを際立たせていた。

九越フェリーからリベラ(東日本フェリー)へ

駅から10分ちょっと歩いただろうか。しゃれたBGMが流れる室蘭港フェリーターミナルで、取材の乗船手続きをする。乗船するのは直江津(新潟県)経由博多行きの「ニューれいんぼうべる」。この年(2005年)の3月に博多から直江津まで乗ってから、7か月が過ぎていた。

ターミナル内で、3年前(2002年)に公開された映画『白い船』の舞台となった島根県の塩津小学校の子どもたちが、室蘭埠頭公社の人々に対して贈った寄せ書きを見つけた。同小の校長先生がこの年に室蘭を訪問された際、室蘭埠頭公社に渡したものである。

子どもたちのメッセージには、
「そうがんきょうをおくっていただきありがとうございました」というお礼が多かった。

しかし、いくつか気になるものも。
「かいしゃがなくなるかもしれないときいてしんぱいしました」
「れいんぼうがなくなるときいてびっくりしました」

ただ、このような心配のメッセージは、いずれも次のように結ばれていた。
「なくならなくてよかったです」

この7か月間で、白い船を取り巻く環境は、大きく変わった。
ニューれいんぼうべる・らぶを博多~直江津で運航していた九越フェリーは、東日本フェリーのグループ会社だった。ところが、その東日本フェリーが2003年に倒産。九越フェリーおよびニューれいんぼう姉妹の航路は存続の危機に立たされる。

2005年、広島県のリベラが東日本フェリーほか九越フェリー含むグループ会社3社を吸収合併。再出発のめどがようやくついた。そして、塩津小学校の子どもたちをもやきもきさせた、白い船航路も存続が決まった。

23時59分。「ニューれいんぼうべる」は定刻の4分遅れで室蘭を出港。ライトアップされた白鳥大橋と、きらめく工場夜景をしばしデッキで眺めた。

『白い船』の余韻

これに先立つ2か月前の7月下旬、塩津小学校の子どもたちが直江津→博多間で3度目の「れいんぼうらぶ」乗船をしている。「ニューれいんぼうらぶ」には初の乗船であり、航路の存続を記念したイベントでもあった。

このとき、船長などクルーへの感謝の意を込めて、ラウンジにおいて「子ども神楽」の披露も行われたという。子どもたちが1・2回目に乗船したとき(1998、2001年)とは、船も会社も変わってしまった。しかし、船内には『白い船』のコーナーが残されていた。そこには映画『白い船』のポスターや、小学校を使用した撮影の模様を撮った写真が掲示されていた。

直江津を出港した翌日の午前、団体乗客のため特別に操舵室見学が催された。筆者も取材のためにそれに混ぜてもらった。見学会のあと、筆者だけはそのまま操舵室に残り、『白い船』について船長とお話をした。

いまでも小学校の子どもたちから「今日は遠足に行って、船を見ました」というFAXがダイレクトに操舵室に来るし、船長はそれらにきちんと返事をしているという。クルーも塩津小学校を実際に訪問するなど、交流は続いているとのことだった。

塩津小学校から日中にフェリーを見ることができるのは博多行きの便のみ。ひょっとすると、高台にある校舎から、今も子どもたちはこの船を見ているかもしれない。

筆者はデッキから、小学校の子どもたちに向けて、大きく手を振った。

試験航海「平成の北前船就航!」

それから1年近い月日がたった。
2006年9月1日の深夜。筆者は博多湾に浮かぶ「ニューれいんぼうべる」船上にいた。

この年、リベラ(東日本フェリー)は、国土交通省の「公共交通活性化総合プログラム」に盛り込まれた航路と地域サービス産業の活性を目的とした試験に参加し、日本海航路でモニターを行うことになった。ニューれいんぼう姉妹の日本海縦断航路に、同年9月1~4日の運航に限り境港と金沢の2つを実験寄港地として加えたのである。

コースは博多発の北上コースと室蘭発の南下コースがあり、北上コースに「ニューれいんぼうべる」、南下コースに「ニューれいんぼうらぶ」を配船。なお、この試験航海のタイトルは「平成の北前船就航!」と打ち出された。

筆者はこれまで山陰地方に行ったことがなかった。そこで、境港の寄港時間も長く、金沢でも観光が楽しめる北上コースに、博多から金沢までモニター乗船することにした。
乗船後、室蘭まで取材乗船するという北海道ローカル紙の女性記者からインタビューを受けた。質問内容は「なぜこの試験航海に参加したのですか」「境港や金沢への寄港が実現すると思いますか」など。

「個人的にはこれまで未踏の山陰に行きたかったので、今回は絶好のチャンス!」
「将来的には日本海を米国におけるカリブ海のようなクルーズエリアにして、日本海が穏やかな夏季の週末を利用して、今回のようなフェリーで日本海クルーズでも行えるようになったらいいですね」と、のんきに答えた。

すると、「ニューれいんぼうべる」は、ゆっくりと動き出した。出港時刻の23時を少し過ぎている。インタビューもそこそこに我々は後部デッキに出て、博多の夜景に見送られることにした。

この航海で初めて山陰を訪れ、筆者の父方の故郷・金沢にも足を運ぶことができた。南北両コースいずれも100名を超える乗船者を集め、日本海定期クルーズも夢ではない、と思わせられた。ニューれいんぼう姉妹が提案した、新しい船旅への可能性。期待が膨らんだその矢先、思いがけない知らせが届く。

れいんぼうとの突然の別れ

塩津小学校から眺める日本海(写真提供:萱野雄一)

2006年も残り2週間を切った12月末、「ニューれいんぼうらぶ」船長から塩津小学校あてに1枚のFAXが届いた。そこには子どもたちにとって、受け入れがたい知らせが記されていた。

10年続いた白い船の日本海航路就航は、今月いっぱいで終了します。「ニューれいんぼうらぶ・べる」ともに、来年4月から太平洋航路(大洗~苫小牧)へと移ることになりました。

実はこの話、2か月前の10月中旬に決定されていた。商船三井フェリーは、リベラ(東日本フェリー)と共同で運航している大洗(茨城県)~苫小牧(北海道)のフェリー航路を来年1月に再編すると発表した。

そのなかで以下もあわせて告知された。
・来年1月から共同運航を廃止し、太平洋航路は商船三井フェリーの単独運航とする。
・ニューれいんぼう姉妹を、商船三井フェリー運航船の「さんふらわあ みと・つくば」と交換する。

おそらく、キャプテンも塩津小学校の子どもたちにショックを与えたくなくて、この決定を直前まで知らせなかったのだろう。この知らせが届いたとき、子どもたちの誰もが動揺を隠せなかったという。

しかし、塩津沖を走る姿はもう見ることができないけれど、太平洋航路に移っても、れいんぼう姉妹のことをずっと応援しよう。そう皆で誓ったのだった。

「あの白い船、いったいどこに行くだぁか…」

1998年6月のあの日から、8年半の歳月が流れていた。子どもたちは白い船の姿をまぶたに焼き付けようと、5・6年教室に集まった。ある子は船会社から送られた双眼鏡を手に、そしてある子は旗を振って。

山陰の冬空は陰鬱な表情を見せることが多い。ところがこの日は、子どもたちの願いが通じたのか、雲一つない青空が広がった。

午前10時30分ごろ、白い船がやってきた。子どもたちの最後の「お~い!」、そして「さよーならー!」が冬の日本海にこだました。

『白い船』の舞台はいま

「ニューれいんぼうべる」は「さんふらわあ しれとこ」として苫小牧~大洗航路の深夜便でいまも活躍する

この航海を最後に、ニューれいんぼう姉妹は商船三井フェリーへ移籍した。2007年、「ニューれいんぼうべる」は「さんふらわあ しれとこ」、「ニューれいんぼうらぶ」は「さんふらわあ だいせつ」に改称され、大洗~苫小牧航路の深夜便に就航することとなる。

しかし、日本海航路にやってくるはずの「さんふらわあ みと・つくば」の2隻は、春になっても姿を現さなかった。白い船の航路はそのまま消えた。

2019年3月に閉校となった塩津小学校(写真提供:塩津定置)

それから12年の歳月が流れた。

少子高齢化の波は山陰の村落にも、否応なく襲いかかっていた。
2019年3月23日。塩津小学校の閉校式が行われた。参加した全校生徒は6人のみだった。

映画上映記念の白い船公園(写真提供:塩津定置)

塩津小学校の跡地から1キロほど離れた海辺に「白い船公園」がある。これは映画『白い船』公開後の2002年8月、上映を記念して塩津地区に整備された。そこには監督・俳優陣のサインが刻まれたモニュメントや主題歌の歌碑が設置されている。

(写真提供:萱野雄一)

航路がなくなり、小学校からも子どもたちの声が消えた。いま、白い船公園だけが、当時の交流を静かに伝えている。

写真協力:萱野雄一(株式会社カヤノ写真機店)、有限会社塩津定置

歴史を知ると
「さんふらわあ」にもっと乗りたくなる。
首都圏~北海道航路「さんふらわあ」はこちら
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