もくじ
日高本線で苫小牧の隣駅・勇払(ゆうふつ)駅へ向かう。隣駅といっても12分もかかるところが、北海道の雄大さを物語る。無人駅のため、車内で運転士に乗車券を渡して下車した。
鉄道駅とは思えぬほどにさびれた勇払駅から歩いて約10分。「蝦夷地開拓移住隊士の墓」に着いた。65名のお墓が並び、きれいな地蔵堂も建てられている。
八王子千人同心の入植
江戸時代、苫小牧一帯は勇払と呼ばれていた。当時、勇払は勇払川をたどってきたアイヌの丸木舟と、北前船をつなぐ物資の集散拠点であったという。勇払という地名は、アイヌ語の「イプッ」(大事な入り口)に由来するとの説がある。
まさにその名の通りの場所であった。千歳などの内陸部から石狩川などをめぐりウトナイ湖を経て運ばれた荷物は、海上で待つ北前船に移され、全国に送り出された。この「勇払越え」は太平洋と日本海を結ぶ重要な物流ルートだった。
18世紀末になると、日本との交易を求めてロシアが蝦夷地(現在の北海道)や樺太(サハリン)そして千島列島に頻繁にやってくるようになっていた。鎖国をしていた江戸幕府は、ロシアの進出に備えて蝦夷地の経営に腰を上げた。そして1800(寛政12)年、東蝦夷地(北海道太平洋側南部)の開拓と警備のため八王子千人同心を勇払に送り込み、入植を試みさせた。
八王子千人同心とは、いまの東京都八王子市の周辺に土着していた千人頭(せんにんがしら)を中心とした郷士の集団。平時は在村で本百姓として農耕に従事し、いざ幕府に一大事があれば、馳せ参じるという存在だ。組頭・原半左衛門を隊長、弟の新介を副士として同心子弟100人をともなって蝦夷地に入った。新介は勇武津(現在の勇払)に入り、警備、開墾などに従事するようになる。
しかし現実は厳しかった。短い日照時間と火山灰地帯のため土地は痩せており、開拓は進まない。寒冷地に慣れない隊士たちは次々に病に倒れ、亡くなる者が続出した。こうして同心たちは入植4年目に勇払を離れ、開拓は失敗に終わった。だが、これがのちの苫小牧の礎となる。
自分の名字を誤記入して苫「小牧」に
移住隊士墓地に隣接する「勇払ふるさと公園」をはさんで緑地がある。その一角に『開拓使三角測量勇払基点』という石碑が立つ。三角形のガラス張りのカプセルがあり、そのなかに石が埋まっている。石碑の説明図にはこうあった。
「この勇払基点は、当時の最新技術を駆使した、わが国で最初の本格的三角測量事業施設であり、ここからは、多くの日本人測量技術者が育つなど、北海道史ならびにわが国測量史上貴重な文化財である。」
1873(明治6)年、明治政府が送った北海道開拓使が三角測量法による地図作成に着手した場所が、まさにこの石のある地点だったのだ。
かつて苫小牧川が流れる一帯をアイヌ語で「山奥に入っていく川」という意の「マコマイ」と呼んでいた。さらに、沼のあった付近をアイヌ語で沼の意味がある「ト」の字をつけて「トマコマイ」と呼んでおり、これが「苫小牧」の語源になったという説がある。北海道の測量が始まった1873年に「苫細」と漢字表記されるようになり、開拓使出張所が勇払から移転。苫細は「苫小牧」と改められる。これが苫小牧の開基とされている。
ここで不思議なのはトマコマイを苫小「枚」とせず、苫小「牧」としたことだ。一説によると、開拓使東京出張所庶務課の小牧昌業が「細」を「小枚」と修正する際に誤って、書き慣れている自分の名字「小牧」を記入してしまったからだという。
石炭を頬にあて号泣した開港の祖
明治から大正にかけて道内の基幹産業を担っていたのは石炭だった。これをいかに機能的に流通させるか。その良策が求められていた。
1924(大正13)年、32歳で留萌港所長に就いた林千秋は「勇払築港論」を提唱する。勇払は石狩炭田や空知炭田まで短距離に位置する。その利点を活かして、両炭田の石炭を鉄道で勇払まで運び、新港から船により移出するという構想だった。
苫小牧は天然の良港ではない。海岸線には長い砂浜が続くだけだ。明治期に漁港として幾度も開発を試みたが、成功しなかった苦い歴史がある。林はそれにくみしなかった。勇払は石炭港として必要な内陸掘削には絶好の地勢にあり、技術的にも決して難工事ではないと主張したのだ。
ここで室蘭から猛烈な反発の声が上がった。苫小牧港ができると貨物を奪われると恐れたのだ。たしかに林の計画は、すでに石炭積出港として定着していた室蘭へのルートを短縮して物流コストを抑制するものだった。のちに北海道と本州を結ぶ物流ルートの中継点をめぐり、フェリー誘致で苫小牧と室蘭が火花を散らしあった苫蘭(とまらん)戦争が起こる。その芽はすでに生まれていたのだ。さらに太平洋戦争が始まり、勇払築港論は潰えかけた。
しかし林の強い信念は、戦後の世代に受け継がれた。1951(昭和26)年、ついに苫小牧港起工が実現。翌年から日本最大の掘込港湾・苫小牧港の建設が開始された。アイソトープによる漂砂追跡調査が実施され、1960(昭和35)年に内陸の掘り込みが始まった。当時の港湾土木技術を駆使し、砂浜から6キロにわたって陸側に掘り進めた。
砂浜での港湾建設は不可能。その常識は破られた。1963(昭和38)年、苫小牧港に第一船がやってきたのだ。林が勇払築港論を提唱してから40年近い歳月が流れていた。齢70過ぎとなっていた林は苫小牧港を訪れ、出港していく最初の石炭船を目にした。そのとき、石炭を頬にあて感激のあまり男泣きしたという。
それから55年。2018(平成30)年は、北海道命名150年の節目であった。北海道開拓の原点ともいえる苫小牧は、記念すべき年に一つの栄誉に浴した。苫小牧港大規模掘込港湾施設が、この年の土木学会選奨土木遺産、いわば日本土木遺産に認定されたのである。
拓郎が歌ったフェリー見送りの情景
1972(昭和47)年4月29日。苫小牧港に初めてフェリーがやってきた。商船三井フェリーの前身である日本沿海フェリーの東京航路が就航したのである。翌年にはデイリー運航が実現している。
時はカーフェリー勃興期。1973(昭和48)年に入ると仙台、名古屋、八戸への航路も相次いで開設されていった。まもなく苫小牧とフェリーを題材にした曲が生まれた。曲名は『落陽』。作曲したのは、前年に『結婚しようよ』で大ヒットを飛ばしたシンガーソングライターの吉田拓郎。作詞は岡本おさみ。
歌詞は岡本が北海道を放浪した時の実体験がベースになっている。岡本が旅の途中で出会った老人はサイコロ賭博に明け暮れる人生を送っていた。そんな老人が苫小牧港から仙台港に向かうフェリーに乗る岡本をわざわざ見送りに来てくれた。
「おまけにテープを拾ってね 女の子みたいにさ」という別れ際の情景が印象的だ。この年、東京・中野サンプラザで行われた「吉田拓郎リサイタル」で初めて発表され、のちに彼のコンサートで演奏されないことはほぼない人気曲となる。苫小牧という地名をこの曲で覚えたファンも多かったろう。
東北、首都圏、中京への航路を持つ「北海道最大の海の玄関口」となった苫小牧港。その先駆者となった日本沿海フェリーはブルーハイウェイラインとなり、1991(平成3)年、苫小牧港に「さんふらわあ」の船体マークが姿を現した。航路は1999(平成11)年に東京に代わり大洗(茨城県)へと集約され、2001(平成13)年7月1日に商船三井フェリーがそれを引き継ぎ、現在に至っている。
ポートミュージアムにて
『落陽』の舞台となった苫小牧フェリーターミナル。その3階に足を運んでみた。目指したのは苫小牧ポートミュージアムである。
ホールに入って、まず刮目したのが足元。上空から見た苫小牧港の航空写真が床一面にデザインされているのだ。この床面展示は2018年3月から登場した。自分が今どこにいるのかを知りたい旅行者はもちろん、地元の人たちにも「自分の家はどこ?」と探せるので好評だという。
また、入港する船社のフェリーの変遷を記した年表の掲示は、フェリーファンにとっては興味深い。さらに目をひかれるのが日本沿海フェリー「しれとこ丸」のモデルシップの展示である。しれとこ丸は1972年4月29日、初めて苫小牧港に入港したカーフェリー。苫小牧港にとって記念すべき船として、その名をいまに語り継がれているのだ。
ポートミュージアムでは苫小牧港に就航するフェリー船社と、その船の歴史がひとめでわかる。苫小牧港に初めてカーフェリーを入港させた日本沿海フェリー以来、現在の商船三井フェリーまでの歩みと、就航船の変遷も学べる。
気が付けば、ターミナルの窓の外から赤い夕陽が漏れていた。まるで『落陽』の歌詞のようだ。夕陽に照らされた「さんふらわあ」が見える。あれに乗って、苫小牧港の歴史散歩に終止符を打つことにしよう。
金丸知好(カナマルトモヨシ)/航海作家
1966年富山県生まれ。日本のフェリーだけでなく外国航路や、中国や韓国の国内フェリーにも乗船経験が豊富。フェリー専門誌「フェリーズ」(海事プレス社)の執筆、「クルーズ」誌(同)に「フェリーdeクルーズ」を連載している。主な著書に「アジアフェリーで出かけよう!」(出版文化社)、「フェリーでGO!」(ユビキタスタジオ)、「超実践的クルーズ入門」(中公新書ラクレ)など。
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