もくじ

まもなく「さんふらわあ」が大洗に入港する。 その船上から、岩礁に立つ鳥居が遠望できた。あれはなんだろう。興味を覚え、下船すると真っ先にそこを目指した。

大洗さまと黄門さま

大洗磯前神社の拝殿。大己貴命(大国主神)、少彦名命をまつる神社で、「福徳円満、家内安全、商売繁盛、農業、漁業、知徳剛健の神」として信仰を集める。

1時間後、大洗磯前神社(おおあらいいそさきじんじゃ)にいた。

いまから1100年ほど前、平安中期にまとめられた『延喜式神名(えんぎしきじんみょう)帳』にも「常陸国鹿嶋郡 大洗礒前薬師菩薩明神社」と記載され、名神大社に列している歴史の古い神社だ。

しかし、戦国時代の争乱で荒廃の一途をたどる。この再興を手がけたのが水戸藩主・徳川光圀。長寿テレビ時代劇「水戸黄門」の主人公として抜群の知名度を誇る、あの「黄門さま」である。1690(元禄3)年、黄門さまは造営を始め、それを継いだ3代藩主・綱條(つなえだ)の代で現在の本殿・拝殿・随神門が完成した。これらは現在、茨城県・大洗町の有形文化財に指定されている。

平安時代前期の856年、海岸の岩礁に神が降り立ったといわれる地に建てられた神磯の鳥居。元旦には鳥居から昇る初日の出を拝もうと大勢の参拝客が訪れる。

なかでも黄門さまがお気に入りだったのが、太平洋に面した岩場に建立されていた「神磯の鳥居」である。これは大洗磯前神社の鳥居のひとつで、黄門さまも鳥居を波が洗う絶景をたたえていたという。その後、神社は「大洗さま」と広く親しみを込めて呼ばれるようになる。

日本三大民謡「磯節」

クルーズ客船が停泊する第4ふ頭に「磯ぶし踊り子の像」が建てられている。まるで、寄港した「にっぽん丸」を、歌いながらお出迎えしているかのようだ。

「磯で名所は大洗さまよ 松が見えますほのぼのと」

日本三大民謡のひとつ「磯節」。その歌詞でも、大洗磯前神社は「大洗さま」とうたわれている。昔から那珂川の河口に並ぶ湊・平磯・磯浜を三浜と総称した。「磯節」はもともと江戸時代に、三浜沖で櫓をこぐ船頭たちの舟唄だったという。

那珂湊は水戸藩の外港として殷賑を極めていた。とくに1688(元禄元)年、黄門さまの時代に那珂川河口の祝町に遊郭が公許されたことで、賑わいはさらに増した。船頭たちが口ずさんだ舟唄はいつしか遊郭で歌われる三味線伴奏のお座敷唄となった。そして現在の曲調として完成したのは明治に入ってから20年ほど経ったころである。そのころ三浜の南にある大洗に海水浴場ができ、人の往来が激増した。これと時を同じくして「磯節」は大洗で歌われ出し、世に広まっていった。

高まる大洗航路への要望

大洗は江戸時代からあんこう、しらす、はまぐりなどが獲れる漁港として栄え、涸沼川(ひぬまがわ)河口が海上運搬の拠点として用いられていた。しかし長年にわたる漂砂の堆積により、河口部の水深は浅くなっていた。

1954(昭和29)年に磯浜町と大貫町が合併して大洗町が発足。1958(昭和33)年の地方港湾指定を機に磯浜港から大洗港へと改名され、1979(昭和54)年に重要港湾の指定を受けた。これを契機に長距離フェリー寄港を前提とする港湾計画が策定された。房総半島を大きく迂回する既存の北海道~東京航路よりも、大洗から首都圏までを陸送化するほうが物流面の効率ははるかに良い。大洗航路の開設は各方面からの要望が高かったのである。

ターニングポイント1985年

1985年に大洗港フェリーターミナルが誕生。現在の建物やボーディングブリッジは1994(平成6)年10月31日に完成した(2017年撮影)。

1985(昭和60)年。それは大洗の歴史を振り返るとき、重要なターニングポイントとして記憶される。

まず、2月に大洗港フェリーターミナルが竣工した。3月14日には鹿島臨海鉄道の大洗鹿島線、水戸~北鹿島(現・鹿島サッカースタジアム)間が開業。それとともに大洗駅の営業も始まった。そしてその2日後、大洗と北海道を結ぶカーフェリーが就航したのである。

大洗との航路を切望する北海道の2港(苫小牧と室蘭)は、その実現のために激しい争奪戦を繰り広げた。そのすさまじさは、ついには「苫蘭(止まらん)戦争」と報道されるまでに過熱した。

その落としどころが、大洗と苫小牧、室蘭をそれぞれつなぐV字航路の開設であった。大洗経由で東京までの苫小牧航路は日本沿海フェリー、そして室蘭航路は東日本フェリーが開設した。「つくば国際科学博覧会(つくば科学万博)」の開幕前日というタイミングであった。

首都圏の海の玄関口へ

出港の時を待つ「さんふらわあ さっぽろ」(先代)。もとは商船三井フェリーのライバル・東日本フェリーの「ばるな」として大洗と室蘭を結んでいた(2017年撮影)。

フェリー航路が開設され、大洗港は大きく変貌する。1988(昭和63)年10月、いまや大洗のシンボルとなった大洗マリンタワーが開業した。1998(平成10)年には第1回「大洗あんこう祭」が開催。以後毎年開催されている。これは茨城の冬の味覚であるあんこうを堪能するイベントで、特設ステージでは大洗町内の郷土芸能披露が行われるなど、大洗に欠かせぬ風物詩となっている。

21世紀に入り、2002(平成14)年にアクアワールド・大洗、2006(平成18)年に大洗リゾートアウトレット、2009(平成21)年にめんたいパーク大洗がそれぞれオープン。現在の大洗港を彩る施設が次々と登場し、港の賑わいも増していった。
フェリー航路もめまぐるしく変遷した。

1990(平成2)年に日本沿海フェリーは社名を変更し、ブルーハイウェイラインが誕生した。これを機に、大洗航路の船名を「さんふらわあ」を冠したものに統一した。その後、常磐道の整備を受けて1999(平成11)年4月に東京港発着を廃止。これで北海道航路は大洗発着に一本化され、大洗は首都圏の海の玄関口という地位を確立した。

夕方便「さんふらわあ ふらの」のブリッジから大洗港を望む。西パースに深夜便の「さんふらわあ しれとこ」の姿が見える(写真:編集部・許可を得て撮影)。

2001(平成13)年、商船三井フェリーが新たに設立され、ブルーハイウェイラインの大洗航路を継承した。2002年6月からは商船三井フェリーと東日本フェリーの共同運航がスタート。これにより室蘭航路が消滅し、苫小牧航路に一本化された。大洗港の東バースには「さんふらわあ」の夕方便、西バースには深夜便が入出港する今のスタイルが確立されたのである。

東日本大震災と風評被害

復興ギャラリーに展示されていた2011年3月11日の写真パネルの数々(写真は大洗港に発生した巨大な渦巻)。
地震発生後、緊急出港するカーフェリー「さんふらわあ」。
第2波観測から69分後、最大となる高さ4.2mの大津波が襲来。

2011(平成23)年3月11日14時46分。突如、地が激しく揺れた。マグニチュード9.0という東北地方太平洋沖地震の発生である。この直後、大洗港で巨大渦潮が発生。そして津波が襲ってきた。大量の土砂が大洗港内に流入し、港湾施設や市街地に甚大な被害をもたらした。

フェリーターミナルは一時使用できなくなり、「さんふらわあ」は旅客の取り扱いを停止した東京~苫小牧間の臨時運航を余儀なくされた。港湾の復旧は急ピッチで行われ、地震発生3か月後の6月に再運航を果たす。

幸い、大洗町の死者数は0であった。しかし、東京電力福島第一原子力発電所での事故による風評被害に苦しめられる。復興は進めど、震災前のような賑わいは戻らない。2011年の海水浴客は年間60万人から14万人へと激減。同年のあんこう祭りの来場者数も例年比1万人減の3万人へと落ち込んだ。

ガルパン人気で復興

水戸と大洗を結ぶ鹿島臨海鉄道。『ガールズ&パンツァー』に登場する女子高生たちのイラストがラッピングされた車両がホームに滑り込んできた。

そんな苦難の時期、大洗を舞台としたアニメの企画が持ち込まれた。そのとき、制作側にも大洗側にもアニメで町を復興しようという考えはなかったという。

2012(平成24)年10月、アニメ『ガールズ&パンツァー』の放送が開始された。大洗町には主人公たちが在籍する大洗女子学園があるという設定である。まもなくガールズ&パンツァー(ガルパン)は大ヒットし、それにともない大洗の知名度が急上昇した。放送開始直後の第16回あんこう祭り(2012年)では、ガルパン出演声優らによるトークショーをはじめとした関連イベントが催されたが、それを目当てにしたファンが大洗に多数駆け付け、過去最多の6万人の来場を記録した。

フェリーターミナルには、『ガルパン』に登場する大洗女子学園の戦車道全国大会優勝を祝うのぼりが立てられていた。

ガルパンでは大洗にある実在の建物や店舗がいくつも登場。アニメの舞台をこの目で見ようという「聖地巡礼」という形で、全国からファンが大挙して押し寄せた。大洗町もガルパンとの積極的なタイアップで、ファンを迎えた。鹿島臨海鉄道によるラッピング車両が大洗に乗り入れ、商店街各店舗にキャラクターのポップを設置、さらには自衛隊による実物の戦車の展示まで行った。大洗駅構内の観光案内所では、ガルパン関連のご当地グッズの購入を可能とした。

大洗駅に併設されていた民宿案内所が、『ガルパン』フィーバーによってそのグッズを取り扱う大洗駅インフォメーションに姿を変えた。全国から駆け付けるファンが必ず立ち寄るスポットだったが、2020年8月2日をもって惜しまれつつ閉鎖。

あるアニメ情報サイトが行った読者アンケート(2016年)で、大洗は「行ってみたいアニメの聖地」第1位になった。ガルパン効果は大洗の復興や活性化に大きくつながったのである。

さんふらわあ壁画

さんふらわあのファンネルは大洗の風景に溶け込んでいた。

東日本大震災で休業を余儀なくされた大洗リゾートアウトレット。震災4か月後の営業再開とともに、大洗町の震災被害を伝える写真展「復興記念ギャラリー」が開設された。当初は同年9月までの予定だったが、貴重な資料や写真が増えたため区画を増やし、会期もどんどん延長された。

復興ギャラリーに展示されていた大きな絵。「さんふらわあ」の船体もしっかり描かれていた。

筆者は2度、この復興ギャラリーに足を運んだ。震災当日や直後の写真に衝撃を受けたが、最も印象的だったのは、「ようこそ大洗」という1枚の大きな絵。波乗りを楽しむサーファーや、あんこうなど大洗名物の魚たちに交じって、「さんふらわあ」の船が描かれていた。やはり、「さんふらわあ」はこの町の風景にすっかり溶け込んでいるのだなあ、と思わせられた。2017(平成19)年7月、翌春に大洗シーサイドステーションとしてリニューアルオープンが決まり、同時にギャラリーもその役目を終えた。

大洗の商店街に面した駐車場のブロック塀に描かれている日本地図「さんふらわあ壁画」。大洗のシンボルは今も昔も「さんふらわあ」なのだ。

いま、大洗に来ると、必ず立ち寄る場所がある。それは商店街にあるなんの変哲もない駐車場。その壁には、地元の子供が描いたと思われる大きな日本地図。そして大洗の位置に「さんふらわあ」がいる。これは震災前から存在し、筆者は勝手に「さんふらわあ壁画」と呼んでいる。震災もガルパンフィーバーも見てきた、歴史の証人でもある。

今回も楽しい船旅でした。そう、「さんふらわあ壁画」に報告し、大洗駅へと向かった。

歴史を知ると
「さんふらわあ」にもっと乗りたくなる。
首都圏~北海道航路「さんふらわあ」はこちら
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