もくじ

鶴見岳が迫ってくる。 それとともに風に乗って、硫黄のにおいがかすかに鼻腔を刺激する。それもそのはず、鶴見の山並を背景に、幾筋もの湯けむりが町のあちこちから立ち上っている。

早朝、「さんふらわあ」は別府に入港した。まず、ターミナルにある「さんふらわあ歴史館」に足を運ぶ。そこでは1世紀にわたる別府~阪神航路の歩みや、その歴史を彩った船たちの模型を見ることができる。

そう、大阪商船にはじまり関西汽船、そしてフェリーさんふらわあに受け継がれた航路なくして別府は語れない。同時に別府という港町抜きに、「さんふらわあ」の歴史は語れない。

大阪商船とともに発展した温泉都市

温泉都市・別府を象徴する風景である別府温泉の湯けむり。古くは明治の文人・高濱虚子や与謝野晶子らにも愛され、その作中にも詠われた。また、NHKの「21世紀に残したい日本の風景百選」では富士山に次いで2位に選出された(2005年撮影)。

源泉数、湧出量ともに日本一を誇る別府八湯。その存在は古代から知られていたという。柴石温泉は平安時代、別府温泉と鉄輪温泉は鎌倉時代には湯治場として利用されていた記録がある。さらに江戸時代に明礬温泉で明礬の生産が始まると、街道沿いの観海寺温泉や堀田温泉、亀川温泉が整備された。

なかでも別府温泉は流川沿いに無数の温泉が湧き出し、江戸時代後期の温泉番付にも登場するほどであった。瀬戸内の各方面からは湯治舟が集まり、活況を呈した。現在のJR東別府駅に近い浜脇温泉。そのそばを流れる朝見川の河口付近が、泊地として利用されていた。

明治になり、日田県(のちの大分県)知事・松方正義が別府を視察した。松方は言った。「海上交通の便を図れば別府発展が期待される」。

松方の発案から楠港が着工されたのは1870(明治3)年のことである。翌年、楠港が完成すると、1873(明治6)年に大阪開商社によって大阪との航路が開かれ、他社も大阪~別府航路に雪崩を打って参入した。さらに、1877(明治10)年に起きた西南戦争によって瀬戸内航路は輸送量が飛躍的に増加。大阪~別府航路は大競争時代を迎える。無数の船社が乱立したことで、競争は過熱。事故も多発した。こうした事態の収拾のため、55の船主が参加して大阪商船が誕生。大阪商船がこの航路に「佐伯丸」を就航させたのは1884(明治17)年のことである。

旧楠港の近くには入母屋破風の外観を持つ市営温泉「竹瓦温泉」がある。別府温泉のシンボル的存在。1879(明治12)年に創設され、1938(昭和13)年に現在の2階建ての建物になった。温泉のほかに砂湯が楽しめる。

大阪と海路で結ばれた別府は、日本随一の温泉都市へと発展していった。1900(明治33)年には、日本で5番目の開業となる路面電車が走った。その運行のために日本で2番目となる火力発電所が設置され、その電力で街灯も整備された。おかげで楠港からまっすぐ西へとのびる流川界隈は、不夜城の賑わいを見せるようになる。繁華街には竹瓦温泉ができ、港のすぐそばということもあり湯治客で大いににぎわった。

1912(明治45)年、大阪商船は当時としては破格の1399トン・時速22キロの客船「紅丸」を別府航路に投入した。この常識破りの「瀬戸内海の女王」の登場で、関西から別府を目指す人が激増。温泉都市・別府の地位は揺るぎないものとなった。

別府の恩人・油屋熊八

別府駅前にたつ油屋熊八の、なんともユニークなブロンズ像。片足で両手を挙げ、彼がまとう温泉マーク入りのマントには地獄めぐりの小鬼がしがみついている。天国から舞い降りた油屋が「やあ!」と呼びかけているイメージだという。

当時、別府航路の定期船は別府湾の沖合に停泊し、乗客は、はしけを使って上陸をしていた。しかし天候状況や波の荒さによっては、はしけでの上陸はかなりの危険をともなった。そこで1916(大正5)年、楠港に大阪商船の船が接岸できる専用桟橋が完成した。この桟橋の建設を大阪商船にかけあい、実現させた男。それが油屋熊八(1863~1935年)である。

愛媛県宇和島で生まれた油屋は30歳で大阪に渡り、相場師として大成功。しかしその後、全財産を失い渡米。3年間、全米を放浪したのち、妻が身を寄せていた別府に移住して再起を期した。まず1911(明治44)年に亀の井旅館(現在の別府亀の井ホテル)を創業。続いてバス事業に進出し、1928(昭和3)年に亀の井自動車(現在の亀の井バス)を設立して、日本初の女性バスガイドによる案内つきの定期観光バスの運行を開始した。

ブロンズ像の台座には別府の名を全国に知らしめた「山は富士 海は瀬戸内 湯は別府」のキャッチフレーズが、日本語と英語で併記されている。

また、「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というキャッチフレーズを考案したのも油屋である。さらにこのフレーズを刻んだ標柱を全国各地に建てて回った。こうした奇抜なアイデアを次々と生み出しては実行する油屋により、別府温泉の名は全国にとどろいた。

油屋が活躍した1920~30年代は、別府興隆期であった。この頃、別府を舞台に大きな博覧会が催され、1928(昭和3)年に開催された中外産業博覧会や1937(昭和12)年の別府国際温泉観光大博覧会は多くの入場者を集めた。大阪商船の別府航路も戦前の黄金時代を迎えていた。専用桟橋の完成もあり「紫丸」「紅丸(2代目)」「緑丸」「菫丸」「に志き丸」「こがね丸」と、次々と大型高速船を送り出していった。

大阪商船の専用桟橋と、そこに停泊する客船。戦前のものと思われる古い絵葉書が、旧楠港そばにあるお店の壁に、額縁に入れて飾ってあった。

なお、別府温泉の宣伝はすべて油屋個人の私財と借財でまかなわれた。そのため、いまなお別府の恩人として慕われている。2007(平成19)年11月1日、その偉業を称えて別府駅前にブロンズ像が建てられた。

くれない丸建造に奔走した市長

戦後の別府航路の黄金時代を演出した瀬戸内海の女王「くれない丸」。1980(昭和55)年に定期航路から引退し、その後、日本シーラインによってレストランシップに改装され、「ロイヤルウイング」と改称。舞台を横浜港に移して、現在も活躍している。

やがて太平洋戦争が勃発するが、幸いなことに別府は戦災に遭うことなく終戦を迎えた。1957(昭和32)年に別府温泉観光産業大博覧会が開催されると、別府競輪場や別府タワー、鶴見岳の別府ロープウェイ、九州横断道路(やまなみハイウェイ)が開業。宿泊施設も急激に増大していった。

戦中に大阪商船から関西汽船の手に移った別府航路も、戦後まもなく再開された。別府の観光開発に比例して、乗船者数もうなぎのぼりに。そこで関西汽船は従来船の3倍もある3000トン級の新造船建造を計画した。

ただしネックがあった。1隻の建造費には当時の額で10億円もの巨費が必要だったのだ。ここで新造船実現のために奔走したのが荒金啓治・別府市長だった。関西汽船への協力を求め、荒金市長は日本開発銀行など関係先に要望書を提出するなど、精力的に動き回る。こうした努力が報われ、1960(昭和35)年に「瀬戸内海の女王」とも呼ばれた「くれない丸」(3代目)がデビュー。同型船「むらさき丸」、その後「すみれ丸」「こはく丸」「あいぼり丸」「こばると丸」が就航した。3000トン級客船は6隻体制となり、別府航路栄光の時代が出現した。船隊は多くの新婚旅行客を別府温泉などへと運んだのである。

客船の大型化とともに、従来の楠港では手狭となっていた。そこで、1950年代初頭には別府国際観光港が着工。1958(昭和33)年には供用が開始された。そして1967(昭和42)年7月16日、関西汽船が現在のターミナルのある別府国際観光港へと移転した。楠港はその百年近い歴史に終止符を打ったのである。

その後の楠港について、触れておきたい。1992(平成4)年に楠港の埋め立てが完了すると、しばらくは「別府夏の宵まつり納涼花火大会」などの各種イベントに使用されていた。油屋熊八肝いりの桟橋跡など、別府航路の栄光の面影はまだ残っていた。しかし2007年、楠港跡地にショッピングモール「ゆめタウン別府」が開店。これにより、かつての別府港の名残はすっかり姿を消した。

「さんふらわあ」就航と客船時代の終焉

別府国際観光港とフェリーさんふらわあターミナル。

時代は移り変わっていた。高度成長期にはあれだけの人気を誇った別府も、1970年中期を境に観光客数は減少に転じていた。同時に、別府航路の利用者数も低迷した。旅客機の低価格化で海外旅行も手の届く夢になり、新幹線も九州まで延伸した時代。時間のかかる船旅を選択する人が減ったのも仕方のないことだった。

1984(昭和59)年12月、別府港に初めて「さんふらわあ」が姿を現した。利用客の激減で経営が傾いた関西汽船を傘下に収めた来島どっくが、同じく傘下にあった日本高速フェリーが保有する「さんふらわあ」「さんふらわあ2」を、かつての花形航路に投入したためである。

その来島どっくも経営難に陥り、関西汽船の経営から撤退。直後の1990(平成2)年、大阪商船三井船舶(現在の商船三井)が来島どっくの傘下にあった関西汽船・ダイヤモンドフェリー・室戸汽船の3社を自社の傘下に収めた。これにより別府航路の「さんふらわあ」化は急速に進む。1992年末までに船はすべてフェリー化され、別府航路の客船時代は終わりを告げた。

よみがえる別府そして黄金航路

楠港から竹瓦温泉にいたる竹瓦小路木造アーケードは、流川界隈のかつての殷賑ぶりと別府航路の黄金時代を知る歴史の証人。竹瓦温泉と竹瓦小路木造アーケードは、「別府温泉関連遺産」として、2009(平成21)年に近代化産業遺産に認定されている。

1996(平成8)年8月8日8時8分8秒。別府温泉の有志が「別府八湯独立宣言」を発表した。これは別府八湯の再活性化スタート宣言でもあった。別府市も老朽化していた市営温泉のリニューアルや街並み整備に力を入れた。

「独立宣言」以降、別府アルゲリッチ音楽祭、別府八湯温泉泊覧会(オンパク)、地域通貨「湯路(ユーロ)」「泉都(セント)」の導入など、新たでユニークな試みが次々と行われていった。また、韓国などインバウンド利用客が増加していた。別府は外国からの訪問客の積極的な受け入れを進め、日本を代表する温泉都市から国際都市へと変貌していった。「別府八湯」の名は国外にもあまねく知られるようになったのである。

2011(平成23)年10月1日。商船三井の子会社として設立されていたフェリーさんふらわあが関西汽船とダイヤモンドフェリーを合併し、新たな体制が発足した。その1週間後、「さんふらわあ」による「よみがえる昼の瀬戸内航路」が別府→大阪で実施された。船内には大正末期から昭和初期にかけての大阪商船時代に制作された「紅丸」や「紫丸」などの美しいレトロポスターが飾られた。満船となった船内ではさまざまな催し物も行われ、あたかも別府航路の黄金時代がよみがえったかのようであった。

その2年後の2013(平成25)年4月6日、別府国際観光港のターミナル内に「さんふらわあ歴史館」がオープン。乗下船の前後に、別府航路の栄華に触れられるようになった。
歴史の余韻にたっぷり浸った。さて、次は名湯に浸かりに別府の町へ繰り出そう。

歴史を知るともっと乗りたくなる。
新しい「さんふらわあ」で、
温泉都市であり港町の別府へ
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