もくじ

特急列車「ソニック」の終着駅は大分である。改札をくぐり、駅前広場に出た。そこには首から十字架をかけた武将の銅像と、すぐそばに歴史の教科書でおなじみの外国人宣教師の像があった。

外国人宣教師の像

武将は戦国大名・大友義鎮。そして宣教師の名はフランシスコ・ザビエル。この2人の出会いが、大分という港町を世界に広く知らしめることとなった。

南蛮貿易で栄えた府内

大航海時代の世界地図
宗麟像とザビエル像の前には大航海時代の世界地図(2016年12月撮影)。

大友氏は鎌倉時代に豊後国(現在の大分県)守護に任じられた。南北朝時代、第7代当主・氏泰は大分川河口に館を構えた。そして城下町の名を府内といった。これが大分市の起源である。

戦国の争乱まっただなかの1550年、大友義鎮(1530~87年)は第21代当主となる。法号の宗麟のほうが通りはいいかもしれない。まず宗麟が着目したのは海外との交易である。時はまさに大航海時代。宗麟が当主になる直前の1545年、中国のジャンク船に乗ってポルトガル人が初めて府内にやってきた。そして宗麟が当主となったばかりの1551年にも来航していた。

宗麟は、神宮寺浦(現在の春日神社近く)を府内の貿易港と定め、琉球、明朝、カンボジアさらにポルトガルとの南蛮貿易に乗り出した。港には各国の貿易船の旗がひるがえり、活況を呈した。同時に宗麟の治世、大友家は最盛期に九州六か国をその版図に加える強盛ぶりを見せたのである。

ザビエルが生んだ戦国のハイカラ都市

西洋医術発祥記念像
西洋医術発祥記念像。1557年、この記念像のある地に日本最初の洋式病院が建てられた。ここではポルトガルの青年医師アルメイダによって、日本初の洋式外科手術が頻繁におこなわれた。

1551年9月、イエズス会士のフランシスコ・ザビエル(1506頃~52年)は布教のため府内を訪れた。ポルトガル船が来航していたことを聞きつけたからである。宗麟はザビエルを引見し、彼の保護と領内での布教を許可したのであった。

ザビエルは同年11月、府内からインドのゴアに向けて出帆。日本人の青年4人が同行した。洗礼名をベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオという。翌年2月、ゴアに到着したザビエルはベルナルドとマテオを司祭の養成学校である聖パウロ学院に入学させた。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは課程を修了し渡欧。ヨーロッパに渡った最初の日本人となっている。

ザビエルの府内滞在はわずか2か月だったが、その影響は計り知れなかった。これをきっかけに、府内に宣教師がたびたび訪問するようになるからだ。

西洋劇発祥記念碑
西洋劇発祥記念碑。1560年のクリスマス、府内のキリスト教会では信者の手によって「ソロモンの裁判を願った二人の婦人」などの西洋劇が演じられた。これが日本における洋劇の初演であった。
育児院と牛乳の記念碑
育児院と牛乳の記念碑。日本初の洋式病院を建てた医師アルメイダは、自費で育児院を建て、戦乱による貧窮のあまり殺されようとしていた嬰児(えいじ)たちを収容し、乳母と牝牛を置いて牛乳で育てた。近世における福祉事業の先駆でもあった。

大分駅からしばらく歩くと、車道の中央に設けられた細長い公園が見える。これが府内城まで北へ350メートル続く遊歩公園である。そして公園内に西洋医術発祥記念像、西洋音楽発祥記念碑、西洋劇発祥記念碑、育児院と牛乳の記念碑が並ぶことに驚かされる。いずれも宗麟の時代、ポルトガル船からもたらされたものである。江戸幕末から明治にかけ、横浜・長崎が西洋文明の受け取り口になったように、戦国の世では府内が日本で最もハイカラな都市だったのである。

ドン・フランシスコとペトロ岐部

ザビエルとの邂逅は、ほかならぬ宗麟にも大きな影響を与えた。キリスト教への関心を深めた宗麟は1578年、ついに洗礼を受け洗礼名ドン・フランシスコを名乗るにいたる。そしてポルトガル国王に親書を持たせた家臣を派遣した。

しかしこのようなキリスト教への傾斜は、一部の家臣たちの離反を招き、その晩年には領内での反乱が数多く起こるようになる。さらに薩摩の島津家などとの抗争にも敗れ、大友家は衰退していく。豊臣秀吉の加勢により大友家は滅亡の淵からなんとか立て直したが、そのさなかの1587年に宗麟は58歳で病没した。

この年、宗麟の遺志を継ぐかのようにひとりの男児が豊後領内で誕生した。キリシタンの父は大友家の重臣で、母もマリアという洗礼名を持っていた。男児はのちにペトロ岐部を名乗る。

「日本のマルコ・ポーロ」の足跡

ペトロ岐部は若くしてイエズス会入会を志したが、1614年に江戸幕府のキリシタン追放令でマカオへ追放された。その後、独力でローマのイエズス会本部を目指すことを決意し、マカオからマラッカ、ゴアへは船で渡り、陸路インドからペルシャ経由でヨーロッパを目指した。その途上、日本人としてはじめてエルサレム巡礼を果たしている。ローマにたどりついたのは出発から3年後の1620年であった。

イエズス会士としての養成を受け、リスボンにも赴いたペトロ岐部は1623年、インドを目指す。喜望峰を回り、翌年ゴアにたどりついた。彼は祖国・日本での布教を熱望し、1630年に16年ぶりに密入国した。9年間、潜伏しながら長崎から東北へと布教を続けたが、仙台で逮捕。江戸に送られ殉教する。

当時の日本人としては、想像を絶する広い世界を渡り歩いたことから「日本のマルコ・ポーロ」とも呼ばれたペトロ岐部。その波乱の一生は53年で幕を閉じた。

遊郭が林立した菡萏(かんたん)港

江戸幕府による鎖国が完成し、日本における大航海時代が終わりを告げた。南蛮交易の船がひしめき合った府内の港は、江戸時代になると国内交易で栄えた。府内を訪れた儒学者・貝原益軒(1630~1714年)は著書「豊国紀行」に記している。

「城は町の東北の海の方にあり。頗る大なり。天守あり。
城の入口三所あり。町も頗るひろし。万の売り物備れり。」

当時の府内城が面した別府湾は、菡萏(かんたん)湾の別名があった。菡萏は開きかかった蓮の花を指し、U字型に開く別府湾の形状から名づけられたといわれる。

明治時代に入り、大分港の築造が計画される。1880年代前半に大分港の前身である菡萏港が完成すると、港の周辺には遊廓が林立した。貸席の数は最大30軒あり、最盛期には200人ほどの遊女がいたという。

これらの遊廓は戦後も存在した。が、1958(昭和33)年の売春防止法施行によって貸間や旅館に転業を余儀なくされる。それらも民家やアパートなどに転用、解体後に更地になるなどの運命をたどり、現在その面影を認めるのは難しい。

菡萏港は1915(大正4)年に大分港(現在の西大分地区)へとさらに近代的に改築され、1960年代の高度経済成長時代には大分の物流拠点として発展を遂げた。

ダイヤモンドからひまわりへ

旧フェリーターミナルの建物
旧フェリーターミナルの建物(2007年12月撮影)。
最後のダイヤモンドフェリー「ブルーダイヤモンド」
大分を出港する最後のダイヤモンドフェリー「ブルーダイヤモンド」
船籍は大分。この2か月後に引退した(2007年12月撮影)。

今からちょうど半世紀前の1970(昭和45)年、西大分フェリーターミナルが開業。同年2月にダイヤモンドフェリーの第1船「フェリーゴールド」が大分~神戸航路に就航した。日本で2番目に誕生した長距離フェリー航路であった。

デビュー間もない「さんふらわあ ごーるど」
大分に入港するデビュー間もない「さんふらわあ ごーるど」
当時、ファンネルにはダイヤモンドマークをつけていた(2007年12月撮影)。

以来、大分は長らくダイヤモンドフェリーの船が出入りする港であった。しかし2003(平成15)年4月1日、同じ商船三井グループの関西汽船と業務提携することで、大分に初めて「さんふらわあ」の船が姿を現した。

2006(平成18)年10月10日、フェリーターミナルは現在の新ターミナルへと移転。2007(平成19)年11月に「さんふらわあ ごーるど」、翌年1月に「さんふらわあ ぱーる」がデビューを果たすと、それに代わってダイヤモンドフェリーの船は次々と引退する。2008(平成20)年2月7日の「ブルーダイヤモンド」最終航海をもって、すべて姿を消した。大分港は、完全に「さんふらわあ」の港になったのである。また、「さんふらわあ ぱーる」就航と同時に、大分発の瀬戸内昼行便も廃止となった。

「菡萏」から「かんたん」に

かんたん港
「フェリーダイヤモンド」船上から見た「かんたん港園」
出港直前の瀬戸内昼行便「フェリーダイヤモンド」船上から見た「かんたん港園」(2005年5月撮影)。

フェリーが出入りする大分港にも大きな変化が訪れていた。大分港東部地域で開発されたコンテナターミナルに物流拠点が移転し、旧菡萏港エリアに立ち並ぶ倉庫群はその役目を終えた。

旧ターミナルの建物
フェリーターミナルが移転してから1年2か月後。まだ旧ターミナルの建物やその機能は残っていた(2007年12月撮影)。

そこで2003年、港のにぎわい創出を目指した港湾環境整備事業がスタートした。ダイヤモンドフェリー・関西汽船の旧フェリーターミナルは芝生広場や遊歩道が広がる緑地公園「かんたん港園」へと整備される。県営の空き倉庫は、海辺のロケーションとレトロな外観を生かし、ライブハウスや結婚式場・カルチャーセンターとして生まれ変わった。

9年後に再訪した、かんたん港園。旧フェリーターミナルの建物は跡形もなくなっていた
9年後に再訪した、かんたん港園。旧フェリーターミナルの建物は跡形もなくなっていた(2016年12月撮影)。

「かんたん港園」は2007年4月に九州で初めて「みなとオアシス」に登録され、賑わいをみせるようになった。かつては「菡萏」と、漢字で書くのも簡単ではなかったが、いまでは「かんたん」とひらがな表記となり、気軽に立ち寄ることができるスポットへ。

かんたん港園に残る、ダイヤモンドフェリー・関西汽船乗り場の痕跡

かんたん港園に残る、ダイヤモンドフェリー・関西汽船乗り場の痕跡(2016年12月撮影)。当時の面影を残しているのは、車両の乗下船口にあった赤いゲートだけ。ゲートのうえには、絵本作家の荒井良二さんによるオブジェ「マッテルモン」(2014年設置)がぽつんと座っていた。何を待っているのだろう、そこにもう船は来ないのに。

かんたん港園を歩き、フェリーターミナルに着いた。ザビエル、大友宗麟(ドン・フランシスコ)そしてペトロ岐部。大分さらには世界を舞台に大航海時代を生きた3人は、大分銘菓の名前として現在に伝わっている。そこで3人の名がついたお菓子をお土産に、神戸行きの「さんふらわあ」に乗った。

歴史を知るともっと乗りたくなる。
新しい「さんふらわあ」
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