志布志港

もくじ

大阪からの「さんふらわあ」が志布志に入港した。クルマやバイクなしの徒歩乗船者は下船直後、続々と鹿児島市内行きの連絡バス「さんふらわあライナー」へと吸い込まれていった。発車を見送ってから、ひとり志布志の町へ歩き出す。この港町が持つ、知られざる歴史の魅力を求めて。

天智天皇が名付けた志布志

志布志市役所前の看板

市役所の前に、こんな看板があった。

「こちらは志布志市志布志町志布志の志布志市役所志布志支所です。」

志布志という地名が5回も登場する。そして地名の由来も記されている。まずはその地名発祥の場所へ向かってみることにした。市役所の前を通る道をまっすぐ東に向かい、前川に架かる橋を渡ると県道3号に合流する。左折するとやがて朽ちかけた仁王像や苔むした庭園などが残る宝満寺跡に至る。

旧境内跡に仁王像や下馬札などが残る宝満寺
かつては薩摩三名刹のひとつとしてその名をとどろかせたが、1869(明治2)年の廃仏毀釈で廃寺となった宝満寺。旧境内跡には仁王像や下馬札などが残る。1936(昭和11)年に観音堂のみが再建され、毎年4月29日にお釈迦祭り(しがっじょか)が催される。

宝満寺は奈良時代に聖武天皇(701~756年)が全国に創建させた古刹。現在の姿からは想像できないが、この地の宝満寺はその美しい伽藍や堂宇からかつて「西海の華」の異名をとった。

「志布志」の地名発祥の地は現在の志布志市街からやや離れた郊外にある。天智天皇の伝説といい、聖武天皇の宝満寺建立といい、古代の香りがほのかに漂う。

さらに北へ進み、志布志の地名発祥の地にたどり着く。遥か飛鳥の世、この地を天智天皇(626~672年)が訪れたという。前川の河口からさかのぼり、ここに上陸したという伝承がある。仮の皇居を建てて滞在していた天皇に対し、土地の女性とその侍女がともに布を献上した。これに感銘を受けた天皇は、「上からも下からも志として布を献じたことは誠に志布志である」と言った。この伝説から、志布志と呼ばれるようになったという。

争奪戦を物語る志布志城

港町としての歴史は平安時代に始まる。1026年、平季基(たいらのすえもと)によって開かれた大荘園島津荘の港がその起源といわれる。当時、この周辺地域は救仁(くに)院と呼ばれた。

救仁院の「志布志津」という名が初めて文献に登場したのは鎌倉時代末期の1316年のこと。前川の河口がそのまま港として利用されていた。朝鮮半島や中国大陸の沿岸を荒らしまわっていた海賊・倭寇の拠点の一つとして利用されていたと考えられている。

やがて中国との地理的な近さもあり、その交易で莫大な利益が得られ、先進的な文明も流入する港として注目されるようになる。こうしたことから、志布志は戦国時代にかけてこれを手中に収めようとする有力者の争いの場ともなった。

武家屋敷跡。南北朝時代から戦国時代にかけて建てられたものが原型となっている。どの屋敷も美しい庭園を備えているのが特徴のひとつだ。

志布志発祥の地から橋を渡ると、武家屋敷跡が並ぶ一帯に出る。ここは志布志麓(ふもと)と呼ばれ、目前に迫る尾根に4つの山城が建てられた。これらを総称して志布志城という。南九州随一の規模であり、志布志争奪戦の歴史をいまに物語る。

現存する武家屋敷群は、江戸時代に建てられたものという。麓とは幕府が地方統治のための武士を集住させた行政拠点だった。なんとも古色蒼然としたたたずまいが印象的で、古びた門からはいまにも武将たちが飛び出してきそうな気さえする。

戦国の世が終わった直後の文禄・慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵1592~98年)においては島津氏の拠点港の一つとなった志布志津。江戸時代中期は薩摩藩の米の積み出し港として利用された。

明治維新の「影の立役者」

志布志の街なかでいくつかみられる、壊されたままの角地蔵。海上交易で日本の最先端だった志布志と、廃仏毀釈の激しさ両方を示す史跡だ。現在は静かな志布志の街の片隅に、穏やかにたたずんでいる。

中世から近世にかけて、志布志は日本の最先端であり続けた。その歴史の証人といえるものを、志布志の街角のあちこちで見つけることができる。それが石敢当や角地蔵である。沖縄では「いしがんとう」と呼ばれる石敢当は、ここ志布志では「せっかんとう」という。

石敢当や角地蔵はともに中国や京都の風習を取り入れたものだろうと言われており、志布志が琉球や上方と海でつながっていたことを感じさせる。事実、志布志の船は南の琉球で砂糖を積み、北は蝦夷地松前まで行き昆布を運んできた。志布志津には諸国の物産を収納する蔵屋敷が立ち並んだ。

そして志布志の最盛期は江戸末期に訪れる。財政破綻の危機に瀕していた薩摩藩で、手荒な財政立て直しに着手したのが家老・調所広郷(ずしょひろさと1776~1849年)だ。調所は幕府によって禁じられていた琉球経由の清国との密貿易に手をつけたのである。

密貿易屋敷跡。幕末の商傑・中山宗五郎政潟は密貿易で財を成した。3階木造建てという当時としてはかなり奇抜な建物だったのは、密貿易の露見を防ぐためである。現在はほとんど取り壊され、その一部が残されている。

効果はてきめんであった。密貿易は膨大な利益を生み出し、志布志津は異常な繁栄を遂げる。現在、門前通りと呼ばれる一本道には密貿易で財を成した豪商の屋敷が林立し「志布志千軒」と呼ばれる賑わいをみせた。

調所の死から約20年後、薩摩藩は強大な武力で倒幕を成し遂げる。武器購入資金の一部は、志布志津を介した密貿易の利潤で蓄えられた。志布志は明治維新の「影の立役者」だったとも言える。

廃仏毀釈と志布志港の再建

大慈寺門前の仁王像

大慈寺門前の仁王像は志布志のシンボルでもある。これは江戸元禄の豪商・山下弥三左衛門が航海安全を願って寄進したもの。このほかにも数多くの文化財が残されている。廃仏毀釈によって破壊されたが、1879(明治12)年に再興。東郷平八郎(元帥海軍大将)、黒田清輝(洋画家)、近衛文麿(第34・38・39代首相)の記帳も残る。

市役所まで戻ってきた。その隣には大慈寺という14世紀に建てられた古刹がある。寺内にはかつて16の寺院僧坊があり、100名を超える修行僧が学ぶ広大なものだった。しかし、明治初期に日本全土で吹き荒れた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)がそれを一変させた。1868(明治元)年の神仏分離令を契機に神道を押し進め、仏教を排斥する風潮の中で、大慈寺や宝満寺といった名刹は破壊により荒廃。角地蔵も同様の運命をたどった。

そんな明治の世、志布志津にも大きな波が押し寄せる。鎖国の廃止と鉄道の開設によって廻船業は一気に衰退し、志布志の町の賑わいも急激に失われていった。

志布志再建の兆しが見えるのは20世紀に入ってから。日露戦争(1904~05年)後、海軍が演習のために志布志に寄港するようになった。ところが、当時の志布志港には大きな船が接岸するための施設がなく、不便極まりなかった。

これを機に、志布志ではかつての栄華を復活させる気運が高まり、1919(大正8)年末に志布志築港が始まった。築港は暴風雨や強い潮流のため、予想外の難工事となったものの、1931(昭和6)年にようやく完成した。

漂泊の俳人、志布志に現る

「松風ふいて墓ばかり」「飲まずには通れない水がしたたる」

志布志の街を歩いていると、風変わりな句碑の多さに気が付く。これらはいずれも漂泊の俳人・種田山頭火(1882~1940年)のものである。

山頭火の句碑

志布志市街でよく目にするもの。角地蔵、石敢当(せっかんとう)、そして山頭火の句碑である。金剛寺そばの句碑には「秋の空高く 巡査に叱られた」とある。山頭火の日記「行乞記・あの山越えて」によると、山頭火は若い巡査に「托鉢なら托鉢らしく正々堂々とやりたまえ」と注意されたという。その時に詠んだのがこの句だという。

放浪の旅に出ていた山頭火が志布志を訪れたのは1930(昭和5)年10月のことである。
山頭火は10月10日に宮崎県串間市から徒歩で志布志入りすると、12日に志布志駅から列車で都城へ向かうまで46の句をこの地で残した。わずか2泊3日の滞在ではあったが、山頭火のユニークかつ自由な俳句は後世の人々の心にも響き、志布志に今なお伝わっている。

かつては志布志線・大隅線・日南線が交差する一大ステーションだった志布志駅。1987年3月に志布志線と大隅線が相次いで廃止され、残されたのは日南線の終着無人駅だけとなった。現在、駅には観光案内所が併設され、街歩きに便利な資料がそろう。

当時は志布志築港も完成秒読みという時期だったが、港湾整備と同時に鉄道でも宮崎県北郷までの志布志線の延長(現在の日南線)や古江線(のちの大隅線)開通などが行われた。なお、山頭火が利用したのは志布志線である。こうして志布志は大隅半島を代表する交通の要衝となっていった。

鉄道記念公園にはSLと客車
旧志布志駅構内はショッピングセンターや道路へと姿を変えた。鉄道記念公園にはSLと客車が展示され、往時の面影をわずかながらも現在に伝えている。

日南・大隅・志布志線と国鉄3路線のジャンクションとしてSLの機関区も抱えていた志布志駅。それも利用客の低迷から1987(昭和62)年3月、国鉄の分割民営化を前に大隅・志布志線が相次いで廃止。日南線だけが無人終着駅として残るのみとなった。駅近くの鉄道記念公園に展示されているSLと客車が昔日の名残をわずかにとどめる。

「さんふらわあ」が来た

1977(昭和52)年1月20日、志布志港に日本高速フェリーの「さんふらわあ11」が寄港を開始した。大阪と鹿児島を結ぶ航路に就航していたが、この日から志布志に追加寄港することになったのだ。1981(昭和56)年8月には「さんふらわあ5」も同航路に就航し、70年代に一世を風靡した「さんふらわあ」2姉妹によるデイリー運航が実現した。

1986(昭和61)年6月、志布志~鹿児島間が繁忙期のみの運航に変更。のちに同区間が廃止されることで大阪~志布志航路として固定され、現在のフェリーさんふらわあに引き継がれていく。

「海のジャンクション」看板。1987年から2014年まで、志布志からは東京、大阪、さらに奄美大島や沖縄にもフェリーで行けた。フェリーさんふらわあのターミナルと、マルエーフェリーの船客待合所はこのように別の位置にあった。

この翌年、大島運輸(2005年からマルエーフェリーに改称)が東京~那覇航路をフェリー化したのと同時に志布志寄港を開始した。奇しくも国鉄2路線の廃止で志布志の鉄道機能が縮小したのと同年である。これにより志布志は東京、大阪、さらに沖縄へとつながる日本でも稀有なフェリーポートとなった。それはさながら海のジャンクションであった。

東京~志布志~名瀬(奄美大島)~那覇を結んだマルエーフェリーの「クルーズフェリー飛龍21」。もとは有村産業の名古屋~大阪~那覇~宮古島~石垣島~台湾航路で1996年にデビュー。2010年3月から東京~那覇航路で就航したが、2014年末に引退。現在は韓国の大仁フェリーに所属し、仁川~大連という中韓航路で活躍中(2014年撮影)。

2014(平成26)年12月、マルエーフェリーの「クルーズフェリー飛龍21」引退による東京~那覇航路のRORO(車両甲板を持つ貨物専用船)化で、志布志の旅客フェリー航路は大阪とつながる「さんふらわあ」専用となった。この4年後、「さつま」「きりしま」という新世代のクルーズフェリーが大阪~志布志航路に相次いで登場。さらに快適な南国への船旅を提供するようになり、志布志はその玄関口となった…。

志布志港フェリーターミナル

そんなことを思い起こしているうちにフェリーターミナルが見えてきた。そこには「さんふらわあ」のクルーズフェリーが停泊している。ここで志布志の歴史散策を切り上げ、素敵な船内へと向かうことにした。

(写真:カナマルトモヨシ。別記写真以外は2018年撮影)

歴史を知るともっと乗りたくなる。
「さんふらわあ さつま・きりしま」で、
鹿児島・志布志港へ
関西~九州航路「さんふらわあ」はこちら
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