松山観光港に寄港していた「さんふらわあ」

もくじ

愛媛・三津の渡し
岸辺にあるブザーを押すと、それが操舵室に伝わり、まもなく船がやってきた。渡船は松山市の運営で、船長は委託の市職員なのだそう。最大搭載人数は13人。車両は乗せられないが、自転車はOK。わずか80メートルの三津の渡しの正式名称は「松山市道高浜2号線」。市道ということで、運賃も無料だ。(2016年1月撮影)

松山市駅から伊予鉄道に乗って三津という駅で降りた。まるで時が止まったかのように静かで、どことなく懐かしい町並を抜けて港に出た。

三津浜は鎌倉時代から河野氏率いる伊予水軍の根拠地であった。京で応仁の乱が始まった1467年、河野通春が三津の対岸にある港山に居城を築いた。物資輸送、そして城兵が三津浜側にあった須崎の浜に毎朝食料を買い求めるために利用したのが三津の渡しであった。

渡船はいまも残る。大正初めころまでは小舟を水竿で操る、中世から変わらぬ風景がそこにはあった。手漕ぎ船からエンジン付きの船になったのは1970(昭和45年)のことである。

三津浜の賑わい

三津浜
江戸から明治にかけて四国随一の賑わいをみせた三津浜。高浜港の完成により、その後はゆるやかにさびれていった。繁栄した時代の建物がそのまま現代に取り残されたかのようなたたずまいだ。(2016年1月撮影)

三津浜が大きく変貌するのは江戸開府の1603年、加藤嘉明が伊予郡松前から新しい城下町の勝山に移ったことに始まる。嘉明は勝山を松山と改称し、三津浜の港湾改修にも力を注いだ。松前の水軍根拠地を移して船奉行を置き、御船場をつくった。そして松前の商人たちを多数移住させて、商取引の発展をはかったのである。

1635年、松平定行が松山に転封入国すると、御船手組や町奉行を置いた。参勤交代制の実施とともに三津浜は藩主御用船の根拠地となり、松山の外港として急速に発展していった。

港では藩の物資の積み出しと移入がさかんに行われ、現在も残る魚市場は瀬戸内屈指の魚介類の集散地となった。問屋・土蔵が軒をつらね、その殷賑ぶりは「松山百町、三津浜五十町」といわれるまでになった。

正岡子規と大阪商船

子規堂の旅だち像
松山市駅に近い「子規堂」。正岡子規が17歳まで過ごした家の一部である8畳の書院をそのまま移し、建てられたもの。子規が使っていた机や遺墨、遺品、写真などが展示されている。入館料は50円。旅だち像は、17歳で東京へ旅立つ子規をイメージしたものだ。(2006年10月撮影)

明治になると三津浜は商工業も発展し、四国一の商取引所になった。1871(明治4)年には、当時大阪~関門間を運航していた汽船舞鶴丸が三津浜に寄港するようになった。
その後、1884(明治17)年に大阪商船が設立されると、同社の大阪馬関(下関)線を始めとする瀬戸内航路の寄港が本格化した。

松山生まれの俳人・正岡子規(1867~1902年)は三津浜と神戸の往復に大阪商船の船をよく使っていた。ただ、1890(明治23)年に三津浜から多度津(香川県)まで乗船した平穏丸は、子規の記すところによれば、大阪商船の中で最も速力が遅かったようだ。「三津より多度津まで十八時間を要せしことも今度が始めて也」と苦言を呈し、そのあまり「三津よりは四十里足らぬ海上をにくさも二九し十八時間」と悪戯っぽい歌も詠んでいる。

子規の時代、三津浜港は底が浅いため、大きな汽船は沖合に停泊せざるを得なかった。そこで船と港との間を「はしけ」と呼ばれる小船で結び、物資や人を運んでいた。

「汽船のりば」と「きせんのりば」

「きせんのりば」の碑

「きせんのりば」の碑。現在、三津浜港から出ているのは柳井行きの防予フェリーと、忽那諸島行きの中島汽船のみとなった。(2009年5月撮影)

子規にとって最後の三津浜からの船旅は宇品(広島)行きだった。上京の前に立ち寄った奈良で残した句が、あの「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」である。(2009年5月撮影)

三津の街なかに「汽船のりば跡」の標柱がたっている。かつて、ここには碑があった。1871年ごろ、はしけで沖の汽船までの運送を始めた久保田廻漕店が設置したものだ。当時、その周辺はきれいな遠浅の砂浜であったという。

三津には「きせんのりば」の碑も存在する。これは現在のフェリー乗り場の正面にある。「汽船のりば跡」標柱に比べると立派なものである。そばには子規と「きせんのりば」の関わりについての碑と、彼の句碑も建てられていた。

1895(明治28)年、記者として従軍した日清戦争からの帰国途上、子規は病に倒れた。療養のため松山に帰郷していたが、同年秋に再度上京することに。そこで子規の知人友人により送別会が開かれた。その席上、旧友の夏目漱石(1867~1916年)が旅立つ子規に和歌を贈った。それに対し子規はこう応えた。「十一人一人になりて秋の暮」。それが句碑に刻まれている。そして三津浜から旅立った子規は、再び松山の土を踏むことはなかった。

その後、埋め立てなどによりかつての三津浜港が市街地に飲み込まれ、明治以来の「汽船のりば」碑は撤去。現在地に「きせんのりば」の碑として移設され、元の場所(実際の汽船のりば)に1本の標柱のみ残されたのだった。

漱石に対して子規が送った惜別の句
漱石に対して子規が送った惜別の句。この年(1895年)の春、漱石は英語教師として松山に赴任していた。(2009年5月撮影)
汽船のりば跡の標柱
汽船のりば跡の標柱。乗り場があった当時は、「くぼたの浜」と呼ばれる砂浜だったという。その後の埋め立てによって、海岸も遠くなってしまったが、子規や漱石も実際はここから船に乗った。 (2016年1月撮影)

「坊っちゃん」が乗った汽車

伊予鉄道の三津駅

伊予鉄道の三津駅。1888年に開業した四国で最古の駅のひとつ。(2015年12月撮影)三津浜に着いた「坊っちゃん」(モデルは漱石)はこの駅から「マッチ箱のような汽車」と表現した軽便鉄道に乗って松山に向かった。現在の駅舎は3代目で2009年2月5日に竣工。なお、漱石の時代3銭だった松山市駅までの運賃はいま310円である。

三津駅の2代目駅舎

こちらは三津駅の2代目駅舎。昭和初期に建築されたといわれる。2008(平成20)年に惜しまれつつ解体された。(2006年10月撮影)

“ぶうと云って汽船がとまると、艀(はしけ)が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。野蛮な所だ。もっともこの熱さでは着物はきられまい。日が強いので水がやに光る。見つめていても眼がくらむ。事務員に聞いてみるとおれはここへ降りるのだそうだ。”(坊っちゃん)

1895年4月、夏目漱石は英語教師として松山に赴任。その際に降り立ったのも三津浜港である。1906(明治39)年に発表した「坊っちゃん」では、船からはしけに乗り移って上陸し、三津駅でマッチ箱の様な汽車に乗って松山に行った自身の体験を主人公に重ねて描写している。
“停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んでみるとマッチ箱の様な汽車だ。ごろごろと5 分許り動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。”(坊っちゃん)

道後温泉本館に掲げられていた夏目漱石の写真
道後温泉本館にある「坊っちゃんの間」に掲げられていた夏目漱石の写真。右は1896(明治29)年に撮影された松山中学校(現・松山東高校)の卒業式記念写真のもの。リアル坊っちゃん、である。(2015年12月撮影)
梅津寺公園に展示される伊予鉄道1号機関車
梅津寺公園に展示される伊予鉄道1号機関車。1888年、伊予鉄道が松山~三津間に鉄道を敷設した時から使用されたもの。ドイツのミュンヘン州クラウス製造所から輸入された機関車だ。「坊っちゃん」でマッチ箱の様な汽車と描写されて以後、「坊っちゃん列車」の異名で愛された。1967年、日本国有鉄道から鉄道記念物として指定された。(2016年1月撮影)
子規堂の前に展示されている伊予鉄道開業時の客車
子規堂の前に展示されている伊予鉄道開業時の客車。漱石が乗ったかもしれない、リアル坊っちゃん列車だ。客車の前には漱石の胸像がある。(2009年5月撮影)

漱石が乗ったかもしれない伊予鉄道1号機関車、通称「坊っちゃん列車」の実物が、いまも梅津寺公園に展示されている。これは日本に現存する最古の軽便機関車で、1888(明治21)年から1954(昭和29)年まで67年間も走り続けた。

伊予鉄道の終点・高浜駅
伊予鉄道の終点・高浜駅。松山観光港への鉄道延伸構想もあるが、いまだに実現していない。そのかわり松山観光港へは100円の連絡バスが運行されている。2分で着く。(2006年10月撮影)

その伊予鉄道が梅津寺のひとつ先、高浜まで鉄道を伸ばしたのは1892(明治25)年のこと。高浜が興居(ごご)島を前面にした天然の良港であることに着目したのだ。伊予鉄道は宇品航路(松山~呉~広島宇品港)を誘致しようと、高浜港に桟橋を建設。「坊っちゃん」が発表された1906年に完成すると、宇品航路だけでなく他の航路の寄港地をも三津浜から高浜へ変更させることに成功した。

高浜駅から高浜港へ
高浜駅から高浜港はすぐ目の前。桟橋には忽那諸島に向かう船が出港を待つ。桟橋の背後には興居島が浮かぶ。(2015年12月撮影)
忽那諸島から高浜港に向かう中島汽船のフェリー
忽那諸島からやってきた中島汽船が、ちょうど高浜港に入港するところだった。左に浮かぶのは四十島(しじゅうしま)。「坊っちゃん」に描かれた「青嶋」のモデルとなった。作中、島に生えている松の形がイギリスの画家ターナー(1775~1851年)が描く松に似ていたことから「ターナー島」と名付けられた。以降、ターナー島の愛称で広く親しまれている。(2019年2月撮影)

その後、兵員輸送の必要性から軍の要請によって待合所・倉庫等の港湾施設が整備されるなど高浜港はさらに充実。いっぽう、海の玄関口の地位を失った三津浜はさびれていく。

別府航路の繁栄とともに

松山観光港ターミナル内観
まるでエアポートのようなガラス張りの松山観光港ターミナル。展望デッキもあり、瀬戸内の風光明媚な景観も楽しめる。売店の数も品ぞろえも充実。2階にはレストランおよびウェディングスペースもあり、結婚式と披露宴ができるフェリーターミナルであった。が、いずれも2020年に閉店となった。(2015年12月撮影)

新しく完成した高浜港には、大阪商船の船も寄港するようになる。なかでも1912(明治45)年に開設した大阪別府線は、阪神~四国~別府遊覧コースとして旅客の人気を集めた。

船社が関西汽船に替わり、1960(昭和35)年に大型客船の「くれない丸」と「むらさき丸」が別府航路に就航した。この客船の大型化が、松山に新しい港の建設を促すこととなった。高浜港は中型以上の船に対応しにくい桟橋構造であり、手狭になったからだ。

松山観光港ターミナル外観
松山観光港ターミナルの外観(2019年2月撮影)

高浜港の北に新設されたのが松山観光港である。1967(昭和42)年3月20日に運用が始まると、関西、九州、広島方面などほとんどの航路は松山観光港へ移った。高浜港は忽那(くつな)諸島や興居島への旅客船・カーフェリーのみの利用となった。

同年夏、関西汽船の別府航路に「あいぼり丸」「こばると丸」が就航すると、当時としては破格の3000トン級客船が最大時6隻体制となる。そして多くの新婚旅行客などを四国九州へと運ぶ黄金時代を迎えた。

さらに1970年にはダイヤモンドフェリーの寄港が始まり、松山観光港は多くのフェリー旅客船、そしてその乗客で賑わいをみせた。

「さんふらわあ」の寄港、そして松山との別れ

松山観光港から出港する「さんふらわあ こがね」
松山観光港から出港する「さんふらわあ こがね」。2009年のゴールデンウィーク。大阪から松山まで往復「さんふらわあ こがね」を利用した。大分行きが朝7時50分入港・8時30分出港、折り返しの大阪行きが19時35分入港・20時30分出港だった。ダイヤモンドフェリーの運航便扱いだったため、ファンネルマークはDマークとなっていた。この2年後、「さんふらわあ」は松山から姿を消した。(2009年5月撮影) 
関西汽船とダイヤモンドフェリーの車両用切符売場
松山観光港フェリーターミナルの建物から少し離れた場所に、関西汽船とダイヤモンドフェリーの車両用切符売場があった。(2006年10月撮影)

やがて客船全盛期は過ぎ、1980(昭和55)年にそのシンボルであった「くれない丸」「むらさき丸」が松山で引退した。

1984(昭和59)年12月、別府航路に「さんふらわあ」「さんふらわあ2」が就航。松山に初めてさんふらわあマークの客船が来航した。続いて1992(平成4)年、同航路に「さんふらわあ にしき」「さんふらわあ こがね」が就航し、全便フェリーへと移行する。

車両用切符売場の内部
車両用切符売場の内部。(2006年10月撮影)

しかし、松山で「さんふらわあ」を見られた時期は、長くはなかった。2009(平成21)年9月に誕生した民主党政権が打ち出した高速道路料金割引の影響で、2010(平成22)年の別府航路の利用客・車両は2005(平成17)年比で6分の1にまで減少。リーマンショックによる景気の先行き懸念もあり、ついに重い決断が下された。それはまさに断腸の思いであった。

すでに2010年2月、関西汽船とダイヤモンドフェリーの共同運航の松山寄港便が廃止され、別府直行便の大阪行きのみ松山経由となっていた。そしてさらに2011(平成23)年4月30日をもって全便で松山寄港を取りやめたのだ。大阪商船時代から130年近く続いた阪神航路の松山寄港は、ここに終わった。

黄金時代のかすかな残影

松山観光港の沖に停泊する関西汽船時代の「フェリーくるしま」
松山観光港の沖に停泊する関西汽船時代の「フェリーくるしま」(2006年10月撮影)

「さんふらわあ」は松山から姿を消したが、別府航路の面影はしばらく残った。1973(昭和48)年、関西汽船は小倉~松山航路でフェリーの運航を開始した。1987(昭和62)年、同航路に「フェリーくるしま」と「フェリーはやとも2」の新船2隻がデビュー。その後、他の関西汽船の船舶が次々と「さんふらわあ」化されていったのに対し、この2隻だけ船体塗装は「ハーパーグリーン」と称する、下半分が緑・上半分が白の関西汽船カラーを守り続けていた。それは2009年11月に小倉~松山航路がフェリーさんふらわあによる運航となっても変わらなかった。

松山・小倉フェリー時代の「フェリーくるしま」
松山・小倉フェリー時代の「フェリーくるしま」。関西汽船の文字が消え、ファンネルマークも石崎汽船のシンボルマーク、マルイチ(屋号)に変わっている。(2015年12月撮影)

2013(平成25)年4月1日、同航路はフェリーさんふらわあから石崎汽船の100%子会社「松山・小倉フェリー」へと継承される。船体にあった「関西汽船」の文字は消えるも、あの独特の塗装は残った。

小倉を出港し、松山に向かうリニューアル直後の「フェリーくるしま」
小倉を出港し、松山に向かうリニューアル直後の「フェリーくるしま」。関西汽船塗装ではなくなり、まるで別の船のようだった。(2019年3月撮影)

そして2019(平成31)年3月。「フェリーくるしま」「フェリーはやとも2」のリニューアルが行われた。ドックを出てきた2隻の船腹にはISHIZAKIの文字。その船体は真っ白だった。松山にかすかに残っていた黄金時代の残影が、ついに消えた早春だった。

旅情豊かな関西~九州航路。
「さんふらわあ」に歴史あり。
港に歴史あり。
関西~九州航路「さんふらわあ」はこちら
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