商船三井フェリー創立20周年記念座談会前編

もくじ

※社名・部署名・役職は取材当時のものです。

2001年に商船三井フェリーが創業してから、今年で20周年を迎えました。誕生当時を知る3名の社員に集まっていただき、現場からみた20年間について語り合う座談会を開催しました。座談会の進行役は、当サイトでも多くの記事を書いている航海作家の金丸知好(カナマルトモヨシ)さんです。

2001年に起きた「二二六事件」。ブルーハイウェイラインの解散

(カナマル)
2001年7月1日に商船三井フェリーがスタートしたわけですが、当時のエピソードなどをお聞かせください。

商船三井フェリー株式会社 経営企画部長 下永さん
商船三井フェリー株式会社 経営企画部長 下永さん

(下永)
私がそれまで勤務していた「ブルーハイウェイライン」(以下、ブルハイ)が解散、新たに商船三井フェリーが設立されることを初めて聞いたのは、忘れもしない2001年2月26日。個人的には「二二六事件」と呼んでいます。
「ブルーハイウェイラインは解散します」という衝撃の内容のメールが来たんです。
でも続けて、「新しい会社が3月に設立され、航路を継承して営業を開始します」とありました。
新会社となる商船三井フェリーの略称が「MOLF(モルフ)」になることになり、私は当時臨港店で荷役作業を担当しはじめていたところだったので、ブルハイの時の荷役無線の呼称は「ハイウェイ1号」などとカッコよかったんですけど、これからは「MOLF1号」になるのか、など初めの頃は違和感というかちょっと気持ち悪さを感じたのが正直なところです。
あと、もらった名刺の「商船三井フェリー」という社名。「商船三井」と書かれるのが、しっくりこなかった頃もありました。

商船三井フェリー株式会社 営業一部長 志水さん
商船三井フェリー株式会社 営業一部長 志水さん

(志水)
商船三井フェリーになってから、あっという間の20年だった気がします。最初は急にドカン!と世界が変わったような感じで。1993年がブルハイ最後の黒字で、翌年からずっと赤字続きだったのでブルハイの経営が相当厳しかったのはわかっていましたので、事業再編もやむを得なかったと思います。

商船三井フェリー株式会社 営業二部副部長 宮原さん
商船三井フェリー株式会社 営業二部副部長 宮原さん

(宮原)
「二二六事件」というのは今初めて知りました(笑)。
現在「フェリーさんふらわあ」が運航している大阪~志布志航路は、当時ブルハイの運航でした。私は鹿児島県で貨物営業を担当していたのですが、経営的にかなり苦しくて、ライバル会社が寄港している宮崎港への中間寄港について各運送会社に賛同の署名をお願いするといった活動をしている頃でした。
たまたま出張先で朝刊を開くと、「清算」と書かれた記事が見えたんです。鹿児島県には離島航路が多いので「ああ、大変だな。離島航路の船も」と思いながら読んでいたら、自分の会社のことで「あれ~!」みたいな(笑)。
それからは携帯電話が鳴りっぱなしで、関係各方面から「どうなっているんだ?」という問い合わせばかり。「私も新聞で初めて知りました」と答えるしかなくて。
取引先を訪れた際には、「清算する会社の人が何の用ですか?」みたいなことを言われたり、門前払いを食らったり、とにかく大変でした。
「商船三井フェリーに転籍を希望する人は手を挙げなさい」となって、手を挙げさせてもらって、面接して改めて入社した次第です。

(下永)
正直言うと私は、ブルハイへの郷愁よりも「商船三井」という名前のインパクトの大きさが上回りました。身の丈以上の会社に入ったなあ、という感覚でした。

(志水)
ただ、新しい名前ってポンと入ってこないんですよ。「商船三井とフェリー。ん?」って。

(宮原)
当時、九州にいたときには、お客様から「さんふらわあの貨物営業の宮原さん」と言われていたので、ブルハイの名前がなくなることは、そんなに寂しいとは感じませんでしたね。

(下永)
ブルハイの前身も日本沿海フェリーや日本高速フェリー。そういう変遷を経てきているから、ひとまとめに「さんふらわあ」と呼ぶのが便利だったのかもしれませんね。

(宮原)
「さんふらわあ」は会社のシンボルみたいなところがありましたね。

(下永)
日本沿海フェリー出身の人には、「さんふらわあ」の太陽マークを見て「なんだ、このマーク」っていう人もいらっしゃいました(苦笑)。
他方、日本高速フェリー出身者は「新しいさんふらわあって、引退した先代のさつまやきりしまに比べると、ちょっとマークが小さくなったねえ」とそんな比較をする。全然違うんだなあ、と思いましたよ。

<編集部注>
1969年
日本沿海フェリー株式会社設立(1972年、東京~苫小牧航路の運航を開始)。
1990年
西日本航路を中心に「さんふらわあ」を就航していた日本高速フェリー株式会社が、日本沿海フェリーへ航路の営業を譲渡(日本高速フェリーは1991年解散)。
1990年11月
日本沿海フェリー株式会社が、株式会社ブルーハイウェイラインに社名変更。
2001年
商船三井フェリー株式会社が設立され、7月1日よりブルーハイウェイラインの大洗~苫小牧フェリー航路、東京~博多RORO航路などを継承して運航開始。10月、ブルーハイウェイライン解散。

ライバル会社との共同運航。激動の5年間

座談会進行役のカナマルトモヨシさん
座談会進行役のカナマルトモヨシさん

(カナマル)
商船三井フェリーという新会社が船出したのもつかの間、1年後の2002年6月から、ライバル関係にあった東日本フェリー(室蘭~大洗)と共同運航ということになりました。率直にどう思われましたか?

(下永)
はじめは4隻中2隻が当社船の「さんふらわあ みと・つくば」で、1隻は当社が東日本フェリーから借りて運航する「ばるな」、残る1隻が東日本フェリーが運航する「へすていあ」。なんだか変な感じでしたね。同時に、これから大変だろうなとも思いました。新しい職場で張り切って「さあ、これからだ!」と思っていたところだったので、はじめ、共同運航はちょっと残念な想いもありましたが、後にはこれが大きかったんだなあと思うようになりました。
というのは、ひたちなか港にRORO船が就航し、競争が激しくなっていた環境を乗り切るためにはやむを得なかったということ。そして結果的に東日本フェリーが撤退したことで、再び弊社の単独運航につながったということですね。

(志水)
私は共同運航開始の翌年の2003年に大洗支店へ赴任しました。90年代から業界全体が過当競争で、ブルハイも東日本フェリーもお互いにライバルとして激しい競争をしてしんどかった時期を過ごしてきました。共同運航の最初の頃は、お互い文化も違うし、ぎくしゃくしたところもありましたが、結果的には一つの船を安全運航させなければなりませんから、最後には現場は協力し合ってやっていたと思います。徐々にお互いわかり合えるようになってきた頃、東日本フェリーが撤退することになったんです。

(カナマル)
共同運航開始から4年半後、2006年末の東日本フェリーの北海道航路撤退。そして「さんふらわあ みと・つくば」と東日本フェリー(九越フェリー)の「ニューれいんぼうべる・らぶ」の交換。いろいろ目まぐるしい動きをみせました。

(下永)
あのときは現場も何がどうなっているのか、さっぱりわからなくて(笑)。当時、東日本フェリーの再建が難航していた中で、大洗~苫小牧航路と同時に日本海航路(室蘭~直江津~博多)も解消して、船主業だけを残すという選択をされたのでしょうね。とにかくしょっちゅういろんなことが変わっていった時期ではありました。
弊社は深夜便を「ミッドナイトエクスプレス」にしたい狙いがありました。RORO船との差別化のために、足の速い東日本フェリーの「ニューれいんぼうらぶ・べる」姉妹を受け入れ、代わりに「さんふらわあ みと・つくば」を手放すことにしたのです。

「ニューれいんぼうらぶ」から船名変更された「さんふらわあ だいせつ」。現在も深夜便として運航中。

(宮原)
その「ニューれいんぼう」姉妹が、それぞれ現在の「しれとこ」「だいせつ」になったんですね。

(カナマル)
同社の「へすていあ」「ばるな」もそれぞれ「さんふらわあ ふらの」「さんふらわあ さっぽろ」へと名前が変わりました。私が当時乗船した時、船室のカギもテープで旧船名を隠すなどの応急処置が取られていました。

(志水)
弊社が「ばるな」を運航することになってから「さんふらわあ さっぽろ」に船名変更するまでの間は、一時的にとりあえず東日本フェリーの船体のカラー塗装の部分を青いラインで上塗りしていた時期もありました。

大洗~苫小牧への航路集約。高速バスとのセットプラン販売へ

(カナマル)
激動の2006年末には大洗~苫小牧航路のフェリーと、東京~大洗間と苫小牧~札幌間の高速バスがセットになった連絡きっぷ「パシフィック・ストーリー」が登場しました。9,990円~(当時)と値段も格安で、いまなお続く人気商品ですが、その誕生のいきさつを教えていただけますか?

(下永)
当時の旅客営業部長の発案で、乗用車を持たない方でも気軽にフェリーを利用してもらおうということで、こうした連絡きっぷが生まれました。首都圏、特に東京が拠点の方には、大洗までに距離を感じるところもあるので、こうした東京発着の商品をつくりました。

(志水)
当時は大洗のことを「ダイセン」って読む方もいらっしゃいましたし、今ほどの知名度はなかったかもしれませんね。

(下永)
最近はNHKの台風情報などで「大洗のフェリーは運休」とか出してくれるので、それで知られるようにはなったかも(笑)。

(志水)
以前は東京~苫小牧というフェリー航路もありました。1999年に廃止して、現在の大洗~苫小牧航路に集約したんです。

座談会は秋葉原の商船三井フェリー本社会議室で行われました。
座談会は秋葉原の商船三井フェリー本社会議室で行われました。

(下永)
その当時、東京~苫小牧航路は旅客営業としてはすごく売りにくかった。33時間かかるし、なかなか乗っていただけなくて。それが1997年9月に東京~大洗~苫小牧となった途端に、東京~大洗間をホテル代わり利用するという売り方ができるようになった。東京を出て、翌朝に大洗でチェックアウトする商品だったら、東北や新潟などへもセールスできたし、「しし座流星群観測ツアー」(1998年11月)なんて商品も作りました。しし座流星群を東京湾で観よう!というコンセプトで。東京~大洗間は1999年に廃止となりましたが、その名残で商船三井フェリー発足当初は大洗~苫小牧間の朝便がありました(2002年6月上旬の共同運航開始とともに夕方便に変更)。

(宮原)
あの頃は北海道航路に「さんふらわあ さつま・きりしま」(いずれも先代)が入ってましたよね?

(下永)
そうそう。当時私は添乗員もやっていて、行きは東京~大洗~苫小牧航路に乗って苫小牧に朝到着して、日中北海道では観光バスで周遊、戻りは夜発の苫小牧~大洗便で帰ってくるというスタイル。今で言う弾丸フェリーのはしりみたいなものでしたね。現地宿泊はしないんですけど(フェリー2~3泊)、苫小牧では夜遅くまで遊べるので、温泉に入ってご飯食べてというスケジュールでお客さまをフェリーに誘導できるわけです。

(志水)
2001年のブルハイ再編の時には東京~那智勝浦~高知航路も消滅しましたしね。

(下永)
あれも悲しかったですね。東京~苫小牧航路も大洗~苫小牧航路にコンパクト化したし、まあ痛みも伴いつつ、その後収益を安定化させることができました。

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まだまだ続く座談会。東日本大震災が起きた2011年からの10年間の話は後編で。
≫ 商船三井フェリー創立20周年記念座談会~後編
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「さんふらわあ今昔ものがたり」も、ぜひご覧ください。

映画『あな番』に撮影協力!
「さんふらわあ」は、これからも
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首都圏~北海道航路「さんふらわあ」はこちら
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