レトロポスターギャラリー

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明治17年(1884年)創業以来、大正、昭和初期にかけて、商船三井は航路網を世界へと広げてきました。当時、旅といえば船、広告といえばポスター、航路の開設や新造船の竣工とともに、たくさんのポスターが作られました。

商船三井の前身である大阪商船が20世紀の初頭に作成したポスターをここにご紹介します。瀬戸内海航路から、外国航路を紹介するポスターまであり、当時は船が外国との唯一の接点を担い、旅の文化の起源であったことを感じさせます。
レトロポスターの世界をぜひお楽しみください。

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※美人画:bijin-ga(Artwords)
日本発祥の呼び方で、女性美を描く日本画における絵画の一ジャンル。広義には女性像を描いた東洋絵画を含む。明治期に生まれた美術制度のジャンル分けが進む中で成立したと考えられている。

安治川の向こうに、大阪北区富島町にあった創業期の大阪商船本社ビルが見える。船着き場の喧噪が画面から伝わるようだ。

「紅(くれない)丸」は、1924年(大正13年)に和辻春樹博士の設計で建造され、大阪別府航路に就航した。僚船「紫(むらさき)丸」とともに"瀬戸内海の女王"と賞された。アッパーデッキを遮蔽したモダンな船容は以降の別府航路客船デザインのパターンとなった。

社名などに金泥を使い豪華な雰囲気を出した美人画風のポスター。航路名から判断して、大正初期のものと推測される。

海外向けに作られた大阪商船のポスター。日本離れした勇壮なタッチがみごとだ。

歌舞伎の隈取りと桃太郎の衣装をテーマにした勇ましいポスター。「日本一」の旗指物の上に大阪商船を表す「大」の文字が見える。

南シナ海を行く朱印船を描いている。大阪商船が独占的な地位を占めていた台湾航路や大連航路の宣伝用と思われる。

遠洋航路に次々進出する大阪商船の勢いを、当時最強の横綱・太刀山に模している。地球に乗った太刀山の足元に当時の大阪商船の航路が描かれている。1915年頃の作品。海外向けに英文版も作成された。

1923年(大正12年)、大阪商船は海外から客船3隻を購入し、神戸基隆線に投入した。豪華な設備と併せ、この航路では画期的な巨船と持て囃された。神戸基隆間の一等運賃は65円。(当時の小学校教員の初任給は約50円)

別府や道後温泉など避寒地へ行く瀬戸内海航路をPRしたもの。写実的な美人画風のポスターが多いなかで、極めてモダンなタッチ。大正末期から昭和初期のものと思われる。

絵の周囲を寄港地名で囲んだユニークなレイアウトの海外向けポスター。旭日昇る富士山をバックに、「ぶえのすあいれす丸」(9,626総トン)が波を蹴立てて出港する姿が勇ましい。

明治40年の大阪商船の国内定期サービスのPRポスター。当時流行したアールヌーボー風のタッチがデザインに表れている。

潮風に吹かれる女性の姿。右下の航路名から1916年(大正5年)のものと思われる。遠景の船は2本煙突だが、当時の大阪商船には1本煙突の船しかなかった。

伴航する客船に見とれて身を乗り出す子どもをたしなめる母らしい婦人の姿を描いた大久保一郎氏の作品。遠くの客船は当時の台湾航路(神戸~基隆)で画期的な巨船といわれた「蓬莱(ほうらい)丸」(9,192総トン)。

"海の女王"と呼ばれた豪華船「蓬莱(ほうらい)丸」。元は豪州沿岸航路の客船「インダーラ」。1923年(大正12年)、大阪商船が購入、台湾航路に就航した。同社の船としては二本煙突が珍しい。

大阪商船の大阪大連線は、1913年(大正2年)欧亜連絡運輸の実施後、日本からシベリア経由ヨーロッパ行きの一大幹線となった。1921年(大正10年)、大阪商船初の蒸気タービン船「ばいかる丸」が就航し、国際線としての声価をさらに高めた。

1923年(大正12年)、台湾航路(神戸~基隆)用に外国から購入した大型客船「蓬莱(ほうらい)丸」(9,192総トン)を描いたポスター。

建造当時日本最大の移民客船であった「ぶえのすあいれす丸」(1929年(昭和4年)竣工)が、南米に向けて神戸港を出航する。背景に六甲の山並み、左下には大阪商船神戸支店(商船ビル)が見える。

かつては道路事情が現在と違い、戦前の大阪と南紀間の輸送は船が主力をになった。1927年(昭和2年)にも、新造ディーゼル船「牟婁(むろ)丸」が南紀航路に就航している。

1884年(明治17年)の当社創業以来、大阪商船の瀬戸内海の諸航路は西日本の物流の幹線であり続けた。戦前、昭和初期の一時には観光旅行も一般化し、大阪商船の船が船旅の楽しさを伝えた。

1884年(明治17年)の当社創業以来、大阪商船の瀬戸内海の諸航路は西日本の物流の幹線であり続けた。戦前、昭和初期の一時には夏休みの旅行も一般化し、大阪商船の船が家族連れを旅に誘った。

1926年(大正15年)8月、「もんてびでお丸」(7,627総トン)が完成し、大阪商船の南米定期航路は、新鋭ディーゼル船3隻を含めた合計5隻による年間10航海となった。「世界一周大航海」のコピーが大阪商船の自負を語っている。

阪神地域からの元旦の参詣客を対象にしたポスター。初日の出を表す黄金色を背景に、琴平宮の鳥居が黒々と描かれている。船は「大智(だいち)丸」(1,280総トン)。大阪~天津線から1928年(大正3年)から大阪~多度津線に就航。当時の国内航路では大型船だった。大久保一郎氏の作品。

カレンダーには1921年(大正10年)と読める。海外向けポスター。この頃の大阪商船は欧州、北米西岸、インド方面に定期便を運航していた。このポスターは海外の支店、代理店や旅行案内所などに貼られていたと推測される。

1921年(大正10年)頃のポスター。左手の客船は当時阪神~大連航路に就航した新鋭船「ばいかる丸」(5,243総トン)。この船は大阪商船最初のタービン機関船として評判になった。大久保一郎氏の作品。

1914年(大正3年)正月用に作られたポスターと推測される。遠くの船は阪神~大連航路の「はるびん丸」(5,169総トン)だろう。

関西からの代表的な避寒地である別府には、大阪商船の「紫(むらさき)丸」「紅(くれない)丸」が観光客を運んでおり、"瀬戸内海の女王"と賞された。その船名は、2022年末以降竣工予定の日本初のLNG燃料フェリー「さんふらわあくれない」「さんふらわあむらさき」に引き継がれている。

1924年(大正13年)大阪商船は日本初のディーゼル機関船の「音戸(おんど)丸」(688総トン)を大阪~山陽線に就航。世間からは煙の出ない船として、海運界では燃料消費の少ない船として賞賛された。

観光地や名所旧跡の多い瀬戸内海の地図に、春の遊覧地情報を盛り込んだポスター。大正末期~昭和初期のもの。幹線ルートの大阪~別府航路が赤線で表されている。

大久保一郎氏の作品と思われる。ボート・ダビットにローマ字で「船旅は楽しい。月見は船で」と書かれているのは、作者の遊び心だろうか。

大阪商船のポスターとして最も古い1枚。1905年(明治38年)の同社の運航船、定期航路の記載がある。当時の代理店(荷客扱店)には個人名が多く並んでいる。

戦前、昭和初期の一時には遊覧旅行も一般化し、大阪商船の船が観光客を旅に誘った。高速道路がない当時、南紀白浜、宮島や錦帯橋などの有名観光地への旅行の足を支えた。

戦前の大阪別府線は、大阪商船の看板航路として新鋭船の投入が続いた。1924年(大正13年)に就航した「くれない丸」は船型・設備ともに優れて「瀬戸内海の女王」と称された。1929年(昭和4年)には「すみれ丸」が竣工、1日2便態勢が実現し、別府航路は黄金時代を迎えた。