大阪商船工務部

 天保山桟橋で「山水丸」に再会して船への興味がまた燃え上がってきた私は、毎週のように天保山に出かけてはなつかしい客船や知らなかった客船に出合いました。瀬戸内の女王、別府航路「こがね丸」も「に志き丸」「すみれ丸」もみんな健在でしたし、大阪商船が創業まもない頃使っていたヒョロ長い煙突の「大井川丸」や「利根川丸」といった古い客船にも初めて対面しました。明治30年に造った船なのです。
 こうして、それまでは船の雑誌やエハガキなどの写真や資料でしか知らなかった船の本物をどんどん見るにつけて、本格的に船好きの道を進むことになってしまったようです。
 その頃、ようやく戦記物の本が出まわって来て、かつての日本海軍の軍艦たちが知らない間につぎつぎと海戦の度に撃沈されて、終戦当時は戦艦「長門」のほか数えるほどしか残っていなかった事実を教えられましたが、商船に関してはあまり報道されていません。そこで私は戦前たくさんの商船を持っていた船会社ひとつひとつに手紙を出して、太平洋戦争でどの船を失ったか、今どれだけの船が残っているのかを問い合わせてみたのです。
 占領下の商船はすべて占領軍の管理下におかれていましたから、船会社も開店休業だったからなのでしょうか、今どき妙な熱心な子供がいるのにあきれたのでしょうか、すべての船会社が丁寧に返事をくれました。ほとんどの船会社の報告は私の知っていた船がすべて沈没して、知らない戦時標準型貨物船の粗悪な2a型、2e型だけがかろうじて生き残っているといった惨憺たるものでした。
 その中で、大阪商船からの返事は私を有頂天にさせるものだったのです。すでにみんな沈没して不要になってしまったものではありますが、私の知っていた好きな客船たちのエハガキがどっさりと入っていました。空襲で焼いて失ったエハガキが戻ってきたような喜びです。ぶ厚いエハガキを差し込む特製のアルバム付きです。しかも報告と一緒に1度会社へ遊びに来なさいと書き添えてあります。数日後、その大阪商船工務部のドアを押して訪れたことは言うまでもありません。
 私への返事を指図したのは、この工務部の庶務を担当する有田修造さんというでっぶりと太ったしかし大へんやさしいおじさんでした。手紙を書いてくれた人はそこで働くolのおねえさんです。目の美しいチャーミングなお嬢さんでした。後日談ですが、このお嬢さんに数年前、日本を周遊中の「新さくら丸」で久し振りに対面したのです。初めて大阪商船を訪れたのが昭和23年2月23日で再会したのが57年5月ですから34年ぶりですが、大阪商船三井船舶の造船技師夫人でお習字の先生でした。私が中学の4年生、おねえさんは数年先輩ということでしょうね、奥様は依然として美しかったですヨ。
 話を昔に戻します。
 船の事を知りたいのならこの人に聞きなさい、と有田さんから1人の若い造船技師を紹介されました。加名生浩二さん、細い顔で少し神経質そうな感じですが話をしてみるとやさしい人でした。あとでわかったのですが、2年前に東大船舶工学科を卒業して大阪商船に入った新鋭の造船技師です。私と8つ違いです。
 工務部というのは船を設計する部屋でみんな造船技師です。小学生の頃随筆集『船』という本を読んで船の造形的な美しさに感動しましたが、その筆者、和辻春樹という人は大阪商船の造船技師で専務取締役までなった人です。私たち船好き仲間が一番美しい船とたたえている大阪商船南米航路移民船「あるぜんちな丸」「ぶらじる丸」(ともに初代、昭和14年建造、1万2700トン)は和辻博士の設計で、私が大阪商船の船に子供の頃から惹かれていたのもその多くが和辻博士の設計になったものでした。すみずみまで神経のいきとどいた造形的な美しさがあったからです。
 私はその憧れにも近い和辻さんが働いていた大阪商船工務部の部屋に出入りして、設計図や図面を引く台、カーブを描く定規など、船の設計のふんいきに囲まれ、またまた海軍の造船士官に憧れていた心が呼び戻されてしまいました。造船技師になりたいなと思ったのです。
 しかし、高校生になっていた私は、小学生の頃のような単純な考えで憧れを満たすような状態ではありません。現実に造船技師になれるような学力でないことを認識しなくてはなりませんでした。数学、物理など理数系の成績がなっていません。これは戦時中から終戦後にかけて空襲で焼け出されて故郷に帰っていたので3カ月ほど学校を休んでいましたが、その間のブランク。それに近眼なのに眼鏡が買えなくて黒板の字がほとんど見えなかったため、この2つが原因で学力が落ちてしまったのです。自ら造船技師には不向きだと判断して美術大学に進んだのです。
 加名生さんも私が造船でなく美術に進んだのを喜んでいました。海運より芸術家の方が楽しいよ、と励ましてくれたのです。今考えると加名生さんの見方は正しかったように思います。

(昭和60年7月25日発行東洋経済新報社「柳原良平船の博物館」から抜粋)