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商船三井の歴史

三井船舶のルーツ(三井物産、海運への進出)

大阪商船の創業にさかのぼること6年前の1878年、三池炭鉱の中国向け石炭輸送を機に三井物産は海運に進出した。一隻の船も保有することなく本プロジェクトに取り組み、そして成功に導いた功労者は、当時弱冠23歳で上海支店に赴き、以降足かけ16年間この地に留まることとなる上田安三郎と、上田のもと上海支店石炭部、船舶部にあった山本条太郎であった。

三井物産会社の総括となった益田孝は、工部省が管轄する三池炭の一手販売権を獲得すると、上海への輸出を企図し、上田安三郎を上海へ派遣する。1878(明治11)年、上海支店を開設し、支店長となった上田は三池炭の現物見本を持って、自ら売り込みに歩き回った。当時の上海市場には台湾炭、オーストラリア炭などが出回り、日本からも外商の手によって高島炭が売られていたため、販路の開拓は容易ではなかった。そのころから上海支店に出入りしていたのが山本条太郎であった。やがて清国や英国系の船会社から燃料炭として大量の注文を獲得し、三池炭の輸出も順調に増加した。それらの輸送は当初、工部省から貸与された風帆船「千早丸」640総トンや外国からの用船でまかなっていたが、不安定であった。そこで、輸送力増強のため、1878(明治11)年3月購入したのが、三井物産の初めての社船となる汽船「秀吉丸」729総トンである。続いて、帆船「清正丸」の建造、汽船「頼朝丸」の購入と進展し、のちの三井物産船舶部から三井船舶につながる、三井の海運業が誕生した。

【上田安三郎】(うえだやすさぶろう)

上田安三郎 (1855~1901)
(写真提供:三井文庫)

上田安三郎は1855(安政2)年2月、長崎市浦五島町に生まれた。3歳のとき、長崎外浦町の上田英助の養子となる。1869(明治2)年、15歳で、当時長崎在留の米国人ロバート・アーウィンに雇われ、同氏及び夫人ゆきの深い信頼を勝ち得る。アーウィン氏の助力を得て、19歳で米国に渡り、ボストンのハイスクール、商業大学に学ぶ。また、当地では団琢磨(のちの三井合名会社の理事長)や小村寿太郎(日露戦争時の外相)などと親交を結ぶ。1876(明治9)年9月、22歳のとき、アーウィンの推薦で、同年7月創業早々の三井物産会社に入社。会計方見習いとして東京の本店に勤務し始める。翌年1月、本採用となり、上海支店開設準備のため、上海出張を命ぜられる。その後の、上田の上海での活躍は上記のとおりだが、明治22年には三池炭鉱の三井組への払い下げが決まり、香港・シンガポールにも出張、販路の開拓に尽力した。1892(明治25)年4月、帰朝を命ぜられ、足かけ16年にわたる上海勤務を終える。同年、三井物産会社委員(後の理事)に任ぜられ、外国部担当専務となる。

「秀吉丸」—729総トン—三井物産 社船 第1船

さて、当時は上海における日本人の地位は極めて低かったが、上田支店長が西洋人や中国人の間に非常な信用を博したことが山本条太郎の伝記中にも特記されている。また、上田が部下社員に外国流の商法や商業道徳について厳しく教え込んだのみならず、日常の礼儀作法や身だしなみまでやかましく注意し、週一回社員と食卓を共にしてテーブルマナーを習わせたという。学卒の新入社員の多くはまず上海支店に送られたが、中には角帯姿で現れ、カーペットの上にじかに座って、支店長の足元でペコペコお辞儀をする者もあったという時代であった。また、当時の支店員の給与は一般に極めて低く、みな貧乏をしており、会社からの借入金も盛んであった。上田は部下の社員の分まで自己名義で借り入れその金額は多額に上っていたという。性格は謹厳細心で社交上手であった(上田が重役に就任してから、借入金のかなりの額が免除された)。
理事になって後も、上海紡績会社など種々の会社の設立に関わり、各地に出張し、精力的に業務に当たってきた。しかし、1900(明治33)年、年来の持病が、同年に生まれた5男栄五郎の夭逝による強いショックを受けた影響もあり悪化、翌年7月死去。47歳の若さであった。

明治31年 三井物産会社支配人会開催中における益田孝の招宴
(前列右より4人目:上田、中列左より3人目:益田)(写真提供:三井文庫)

【山本条太郎】(やまもとじょうたろう)

山本条太郎 (1867~1936)
(写真提供:三井文庫)

1867(慶応3)年、越前国福井藩(現在の福井県福井市)に生まれる。維新後一家で上京、神田の共立学校に入学する。しかし、入学してまもなく肋膜炎を患い、療養のため退学。1881(明治14)年、15歳のとき、叔父の口利きで三井物産の横浜支店に丁稚(下働き)として採用される。「条どん」の愛称で親しまれた山本は、仲買の仕事に励みながら夜は漢学や習字、英語の勉強をした。「他の小僧と同じように寝て、起きて、働いていては人に抜きん出ることはできぬ。夜は他の小僧が寝てから、押入れに入り込んで勉強した。つまり、他の奴に迷惑をかけず、自分だけ眠いのを我慢すれば勉強ができるのだ」と後に語った山本は、たちまち頭角を現し、東京本社に引き上げられる。だが、1886(明治19)年、会社が禁じていた相場に手を出していたのが発覚し、懲戒処分を受け、左遷される。「頼朝丸事務取扱乗組」の社命である。
しかし、この「頼朝丸」での勤務がその後の人生にとって大きな糧となる。三井物産の所有船である汽船「頼朝丸」は約1000トン、当時では相当な大型船であった。上海に三池炭を運ぶ船員はほとんどがイギリス人、わずかに清国人がおり、日本人は山本一人であった。船長のベンジャミン・ゴールが山本の才覚を見込んで、英語を教え、イギリス流の礼儀作法も身に付けさせた。「頼朝丸」での約1年3カ月は「左遷」ではなく「留学」であった。1891(明治24)年上海支店に赴任、1901(明治34)年上海支店長に就任。
山本の上海時代の1904(明治37)年、日露戦争が勃発、ロシアのバルチック艦隊の動静をいち早く察知することが重要であったが、翌年、バルチック艦隊はベトナム・カムラン湾を出港してから消息不明となっていた。山本は部下の森恪(後の外務政務次官)に艦隊の探索を命じる。ヨットで出航した森はバタン諸島付近で艦隊を発見、上海支店に無線で連絡し、その貴重な情報は日本海軍に伝わった。
山本はその後、中国市場を統括する、「総監督」に就任、1908(明治41)年本店に戻るまで、20年近くを上海で過ごした。三井物産を退いた後、政治家に転身、田中義一内閣の下では、立憲政友会の幹事長を務めた。1929(昭和4)年、南満州鉄道(満鉄)総裁に任命された。1936(昭和11)年、没。享年68。
(参考文献:三井文庫論叢第7号「三井物産会社と上田安三郎」、(株)三友新聞社「三井事典巻四」)

【年表】

1876(明治9)年7月 三井物産会社設立
1877(明治10)年6月 上田安三郎(23歳)、上海に派遣される
1878(明治11)年3月 汽船「秀吉丸—729総トン—」(ORDUNA号)を購入
1879(明治12)年3月 帆船「清正丸—450総トン—」を石川島平野造船所で建造
1880(明治13)年4月 汽船「頼朝丸—1100重量トン—」(英国建造)を購入
1889(明治22)年1月 三池炭鉱の払い下げを受ける販路を香港・シンガポールに拡大
1891(明治24)年 山本条太郎、上海支店に赴任(24歳)
1892(明治25)年4月 上田安三郎 帰任、三井物産会社委員(後の理事)に就任(38歳)
1894(明治27)年10月 東京の本店内に臨時船舶掛を設ける
1901(明治34)年 山本条太郎、上海支店長に就任(34歳)
1901(明治34)年7月 上田安三郎 死去(享年47)
1903(明治36)年4月 門司支店内に船舶部を設置
1904(明治37)年3月 船舶部を神戸に移転
1908(明治41)年 山本条太郎、上海支店離任、本店に戻る
1936(昭和11)年3月 山本条太郎 死去(享年68)
1942(昭和17)年12月28日 三井物産会社から船舶部を分離独立して三井船舶(株)設立。本社:東京

(2011年4月社内報「うなばら」より)